麦倉洋一
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佐野日本大学高等学校硬式野球部 監督 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 栃木県下都賀郡都賀町(現:栃木市)[1] |
生年月日 | 1971年7月29日(53歳) |
身長 体重 |
178 cm 79 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1989年 ドラフト3位 |
初出場 | 1991年4月9日 |
最終出場 | 1991年7月13日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督歴 | |
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この表について
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麦倉 洋一(むぎくら よういち、1971年7月29日 - )は、栃木県下都賀郡都賀町(現:栃木市)出身[1]の元プロ野球選手(投手、右投右打)、野球指導者。
経歴
[編集]中学時代にテレビ番組『ビートたけしのスポーツ大将』に出演したけし軍団と対決し1安打完封、ビートたけしに「君はプロでやっていける」と絶賛された。
佐野日大高では3年時に48イニング連続無失点や[1]、栃木県予選では全試合無失点を記録し、同校初となる夏の甲子園に出場に貢献し[1]、球威のあるストレートがプロ野球のスカウトの注目を浴びた。甲子園の大会の初戦は開会式直後の開幕戦であり、その試合で打ってはその試合唯一の得点となる決勝本塁打、投げては完封勝利を挙げ、1-0で近大福山高に勝利した[1]。平成元年の大会の開幕戦であったため、夏の甲子園大会の「平成1号本塁打・打点・得点・勝利打点」「平成1号勝利(完投勝利・完封勝利)投手」を独占することとなった。
1989年のプロ野球ドラフト会議にて阪神タイガースから3位で指名され入団した。ドラフト指名後の会見で「自分が阪神に指名されたので、友達も皆阪神ファンになった」という趣旨を栃木弁で語った。契約金4500万円・年俸400万円(金額は推定)と決まった[2]。
2年目の1991年にカーブやフォークボールを武器に、プロ初勝利を含む2勝をマークしたが、1992年に右肩を故障し手術を2回受けるも肩が回復せず、1994年6月に現役引退。
引退後は、ゴルフ場開発会社勤務を経てスポーツ用品の商社のデサントに勤務し、営業部タイガース担当に。また阪神タイガースOB野球教室に講師として参加している。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1991 | 阪神 | 12 | 7 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 0 | -- | .333 | 174 | 39.1 | 40 | 6 | 24 | 0 | 0 | 18 | 2 | 0 | 23 | 21 | 4.81 | 1.63 |
通算:1年 | 12 | 7 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 0 | -- | .333 | 174 | 39.1 | 40 | 6 | 24 | 0 | 0 | 18 | 2 | 0 | 23 | 21 | 4.81 | 1.63 |
記録
[編集]- 初登板:1991年4月9日、対読売ジャイアンツ1回戦(阪神甲子園球場)、8回表無死に4番手で救援登板、1回無失点
- 初奪三振:1991年4月10日、対読売ジャイアンツ2回戦(阪神甲子園球場)、8回表に緒方耕一から
- 初先発登板・初勝利・初先発勝利:1991年5月6日、対横浜大洋ホエールズ4回戦(阪神甲子園球場)、6回2/3を1失点
背番号
[編集]- 50 (1990年 - 1993年)
- 42 (1994年)
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 麦倉洋一 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)