中院通知
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 明和8年11月6日(1771年12月11日) |
死没 | 弘化3年4月4日(1846年4月29日) |
官位 | 正二位・権大納言 |
主君 | 後桃園天皇→光格天皇→仁孝天皇 |
氏族 | 中院家 |
父母 | 父:中院通古 |
兄弟 | 通知、野宮定顕正室 |
妻 |
正室:蜂須賀重喜四女 妾:家女房3人 |
子 |
通繁、愛宕通祐、千種有名、淳丸、 順丸、孟子、芳子、保子、知子、義子 |
中院 通知(なかのいん みちとも)は、江戸時代中期から後期にかけての公卿。中院通古の子。官位は正二位・権大納言。
経歴
[編集]安永3年(1774年)に従五位下、安永8年(1779年)に侍従や近衛権中将、蔵人頭[1]などを経て文化12年(1815年)に参議となる。文政4年(1821年)には正二位となり、文政7年(1824年)、権大納言に就任。
系譜
[編集]- 父:中院通古
- 母:中院通古の正室
- 正室:蜂須賀重喜の四女 - 後に離縁
- 家女房:某氏
- 男子:中院通繁
- 男子:淳丸
- 男子:順丸
- 家女房:大炊頭・治喜の娘
- 女子:孟子
- 女子:芳子
- 女子:保子
- 家女房:某氏
脚注
[編集]- ^ 寛政4年10月27日に任じられているが、父との確執が原因で寛政7年1月26日に辞任に追い込まれた(甘露寺国長『国長卿記』)。なお、江戸時代に大臣家から蔵人頭に任じられたのは正親町三条実有(慶長年間)と彼のみで、大臣家から蔵人頭に任じられた最後のケースでもある(林大樹「近世蔵人頭に関する基礎的考察」國學院大学国史学会『国史学』217、2015年)。
参考文献
[編集]- 橋本政宣編 『公家事典』 吉川弘文館、2010年、ISBN 9784642014427
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