久貝正方
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 慶安元年(1648年) |
死没 | 享保4年11月14日(1719年12月24日) |
別名 | 号:意閑(致仕後)、通称:甚三郎、弥右衛門、忠左衛門 |
墓所 | 下谷の向泉寺 |
官位 | 従五位下因幡守 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家綱→綱吉→家宣→家継→吉宗 |
氏族 | 形原松平家→久貝氏 |
父母 | 父:松平氏信、養父:久貝正世 |
兄弟 |
松平氏清、八兵衛、伊奈宗英室、 本多重寛室、渡辺方綱正室、正方、 松平氏辰、松平高重、能勢頼方室、 遠藤常就室、施薬院宗屋室 |
妻 |
大久保教勝娘 後室:水野忠久娘 |
子 | 養子:正順[1]、久貝正順室[2] |
久貝 正方(くがい まさかた)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本、勘定頭。松平氏信の三男。母方の祖父・久貝正世の養子。通称は甚三郎、弥右衛門、忠左衛門。号は意閑(致仕後)。官位は従五位下・因幡守(元禄12年)。
略歴
[編集]延宝3年(1675年)より定火消を務め、同年布衣を着することを許される。天和2年(1682年)小川村(現東京都小平市)に抱屋敷を所有する(元禄8年(1695年)に売却)。貞享4年(1687年)持筒頭となる。元禄2年(1689年)領地に長尾陣屋(現大阪府枚方市、明治2年(1869年)上知まで同地を治める)を築く。元禄9年(1696年)23代火付盗賊改方頭となる。
元禄12年(1699年)1月11日から宝永2年(1705年)12月1日まで勘定奉行(元禄期までは勘定頭と呼ばれていた)を務め、道中奉行を兼帯した。元禄12年(1699年)1月13日、幕府より国絵図改正を担当するよう命を受ける。宝永2年(1705年)留守居役に転任。宝永7年(1710年)武蔵国比企郡および入間郡内において500石加増され計5500石となる。正徳2年(1712年)御側並、翌年御側となる。享保元年(1716年)徳川家継が没するとその任を解かれた。
享保3年(1718年)10月19日に致仕し、養子・正順に家督を譲る。享保4年(1719年)死去。享年72。墓所は下谷の向泉寺。
脚注
[編集]関連項目
[編集]- 石灯籠切虎徹 - 旗本『久貝因幡守』が依頼して作刀されたという逸話がある。