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久貝正方

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
久貝正方
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 慶安元年(1648年
死没 享保4年11月14日1719年12月24日
別名 号:意閑(致仕後)、通称:甚三郎、弥右衛門、忠左衛門
墓所 下谷の向泉寺
官位 従五位下因幡守
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家綱綱吉家宣家継吉宗
氏族 形原松平家久貝氏
父母 父:松平氏信、養父:久貝正世
兄弟 松平氏清、八兵衛、伊奈宗英室、
本多重寛室、渡辺方綱正室、正方
松平氏辰松平高重能勢頼方室、
遠藤常就室、施薬院宗屋
大久保教勝
後室:水野忠久
養子:正順[1]久貝正順[2]
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久貝 正方(くがい まさかた)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本勘定頭松平氏信の三男。母方の祖父・久貝正世の養子。通称は甚三郎、弥右衛門、忠左衛門。号は意閑(致仕後)。官位従五位下因幡守(元禄12年)。

略歴

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延宝3年(1675年)より定火消を務め、同年布衣を着することを許される。天和2年(1682年)小川村(現東京都小平市)に抱屋敷を所有する(元禄8年(1695年)に売却)。貞享4年(1687年)持筒頭となる。元禄2年(1689年)領地に長尾陣屋(現大阪府枚方市、明治2年(1869年)上知まで同地を治める)を築く。元禄9年(1696年23代火付盗賊改方頭となる。

元禄12年(1699年)1月11日から宝永2年(1705年)12月1日まで勘定奉行(元禄期までは勘定頭と呼ばれていた)を務め、道中奉行を兼帯した。元禄12年(1699年)1月13日、幕府より国絵図改正を担当するよう命を受ける。宝永2年(1705年)留守居役に転任。宝永7年(1710年)武蔵国比企郡および入間郡内において500石加増され計5500石となる。正徳2年(1712年)御側並、翌年御側となる。享保元年(1716年徳川家継が没するとその任を解かれた。

享保3年(1718年)10月19日に致仕し、養子・正順に家督を譲る。享保4年(1719年)死去。享年72。墓所は下谷の向泉寺。

脚注

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  1. ^ 徳川水戸家家臣久貝正武の子
  2. ^ 松平氏清の娘

関連項目

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  • 石灯籠切虎徹 - 旗本『久貝因幡守』が依頼して作刀されたという逸話がある。