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九条良輔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
九条良輔
時代 平安時代末期-鎌倉時代前期
生誕 文治元年9月20日1185年10月15日
死没 建保6年11月11日1218年11月30日
別名 号:八条
官位 従一位左大臣
主君 後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇
氏族 九条家
父母 父:九条兼実、母:八条院女房三位局(高階盛章の娘)
兄弟 良通良経任子良円良平良快良輔、良尋、良海、良恵、玉日
異父兄姉:道尊・三条姫宮
坊門信清の娘、藤原経家の娘
玄季の娘
良瑜、道宝
養子:教家
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九条 良輔(くじょう よしすけ)は、鎌倉時代前期の公卿関白九条兼実の四男。官位従一位左大臣。八条と号す。

経歴

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母が八条院暲子内親王に仕えていた縁により、幼くしてその猶子となる。建久5年(1194年元服正五位下に初叙される。侍従右近衛少将・右近衛中将を経て、正治2年(1200年従三位に叙せられ公卿に列す。建仁3年(1203年権中納言元久2年(1205年正二位権大納言と昇進する。既に早逝していた長兄の良通に続き、次兄の摂政・良経も元久3年(1206年)に薨じたため、庶子であったにもかかわらず九条家の中心的な存在となり、承元2年(1208年内大臣承元3年(1209年右大臣建暦元年(1211年)には左大臣に昇進し、嫡流とされた甥の道家を圧倒したが、疱瘡のため34歳で急死した。道家の実弟・教家を養嗣子とした。

人物

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菅原為長らに儒学を学び、病気の時でさえ経書史書を手放さなかったと言われる[1]ほど、学問を愛好した。大叔父の慈円からは「漢才古今に比類なし」「日本国古今たぐひなき学生」と評価された[2]

樋口健太郎は九条兼実の『玉葉』における良輔の生母・八条院女房三位局に関する記述より、彼にとって八条院の側近である彼女はあくまでも政治的交渉相手で自分の妻妾とする考えはなかったとする[注 1]。兼実から見れば言わばライバル関係にある女性が生んでしまった自分の男子の扱いに困り、八条院の猶子としていずれは出家させるつもりであったが、既に猶子である二条天皇や以仁王を亡くしていた八条院は彼を貴族として立身させることを望んだ。後に権大納言であった良輔が徳大寺公継と右大将の地位を争って敗れた後に八条院が後鳥羽天皇に抗議したために代わりに内大臣に任ぜられたと伝えられている(『明月記』承元2年5月30日条)。このため、八条院は良輔の子孫に九条家とは別に一流を立てさせて没後の所領や仏事の一端を担わせることを構想していたのではないかと推測している。樋口はこの見解に基づいて、良輔は厳密には「九条家の一員」とは言い難く、「八条良輔」と表記するのが適切との見解を取る[3]

官歴

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系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ そもそも彼女は謀反人とされていた以仁王の室の1人で、しかも後年に八条院領を巡って兼実の外孫昇子内親王(春華門院)とは競合関係となる三条姫宮の生母でもある。

出典

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  1. ^ 三長記建永元年4月23日条
  2. ^ 愚管抄
  3. ^ 樋口健太郎「八条院領の伝領と八条良輔」(初出:『年報中世史研究』40号(2015年)/所収:樋口『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3