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五月潤子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
さつき じゅんこ
五月 潤子
本名 曾我 冬子 そが ふゆこ
生年月日 (1907-12-10) 1907年12月10日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市芝区(現在の東京都港区芝)
職業 女優
ジャンル トーキー時代劇映画
活動期間 1932年 - 1937年
活動内容 1932年 日活太秦撮影所
1934年 日活京都撮影所
1937年 ゼー・オースタヂオ
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五月 潤子(さつき じゅんこ、1907年12月10日 - 没年不明[1])は、日本女優である[2][3]。本名曾我 冬子(そが ふゆこ)[1]

人物・来歴

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1907年(明治40年)12月10日東京府東京市芝区(現在の東京都港区芝)に生まれる[1]。旧制・尋常小学校在籍時から、日本舞踊の藤間政弥に師事する[1]

1932年(昭和7年)7月、満26歳で日活太秦撮影所時代劇部に入社、辻吉朗監督のサイレント映画江戸染草鞋』で主演の海江田譲二の相手役に抜擢されて映画界にデビューする[1][3]。時代はサイレント映画最末期であり、翌1933年(昭和8年)には、監督・伊藤大輔、主演・大河内傳次郎にとってのトーキー第1作『丹下左膳 第一篇[4]にお登勢役で出演している[3]

1934年(昭和9年)には同撮影所が日活京都撮影所と改称、引き続き所属した[3]。1935年(昭和10年)には、稲垣浩が監督し、山中貞雄と荒井良平が応援監督し、大河内傳次郎が主演した『大菩薩峠 第一篇 甲源一刀流の巻』に山岡屋お滝役で出演している[3]。1936年(昭和11年)以降、悪役俳優から喜劇俳優に転向した高勢実乗鳥羽陽之助のコンビが主演する時代劇コメディに多く出演するようになる[3]

1937年(昭和12年)、ゼー・オースタヂオ(のちの東宝映画京都撮影所)に大河内傳次郎、黒川弥太郎らとともに移籍、4作に出演する[3]が、翌1938年(昭和13年)に同社を退社し、映画界を去った[1]。以降の消息は不明である[1][2][3]

フィルモグラフィ

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すべて出演作である[2][3]

日活太秦撮影所

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日活京都撮影所

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ゼー・オースタヂオ

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  1. ^ a b c d e f g 『日本映画俳優全集・女優編』、キネマ旬報社、1980年、p.333.
  2. ^ a b c Junko Satsuki, Internet Movie Database (英語), 2010年7月20日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i 五月潤子、日本映画データベース、2010年7月20日閲覧。
  4. ^ フィルム・コレクションに見るNFCの40年 - 丹下左膳 第1篇東京国立近代美術館フィルムセンター、2010年7月20日閲覧。

外部リンク

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