五条為栄
五条為栄 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 |
1842年5月1日 (天保13年3月21日) |
死没 | 1897年7月16日(55歳没)[1] |
主君 | 孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 五条家 |
父母 | 父:五条為定 |
兄弟 | 為栄、五島基民 |
妻 | 烏丸良子(烏丸光政の三女) |
子 | 秀麿、為功、道久、為忠 |
五条 為栄(ごじょう ためしげ)は、幕末の公家、明治期の陸軍軍人・内政官僚・政治家。陸軍少将、元老院議官、貴族院子爵議員、錦鶏間祗候。
経歴
[編集]山城国愛宕郡上京第二十二区堺町御門内西殿町角屋敷で、権中納言・五条為定の息子として生まれる[1]。安政2年3月(1856年)に元服し昇殿を許された[1]。
安政5年(1858年)廷臣八十八卿列参事件に加わった。その後、大学頭、侍従、文章博士を歴任[1]。文久4年(1864年)に入り、同年2月の元治の元号を勘申した[1]。元治元年7月19日(8月20日)の禁門の変では長州藩側として動き、参朝停止となった[1][2]。慶応3年1月(1867年)に赦され[1][2]、同年11月20日(12月15日)参与助役に就任[3]。鳥羽・伏見の戦いが起こり慶應4年1月4日(1868年1月28日)錦旗奉行となる[3]。その後、中国四国追討使副督に任じられ同年1月28日(2月21日)まで従軍[3]。同年2月20日(3月13日)参与・刑法事務局権輔に就任[3]。以後、軍務官兵学校奉行助役、三等陸軍将を歴任[3]。
明治2年6月2日(1869年7月10日)戊辰の戦功により賞典禄50石を永世下賜された[3]。同年7月22日(9月8日)陸軍少将に任じられた[3]。以後、次侍従、侍従、東京府十等出仕、山形県第一大区区長、同最上郡長、同東村山郡長、元老院准奏任官御用掛などを歴任[3]。
1884年7月8日、子爵を叙爵[4]。元老院書記官を務め、1888年6月7日、元老院議官となり、その1890年10月20日の廃止まで在任し非職、同日、錦鶏間祗候を仰せ付けられる[3]。同年7月10日、貴族院子爵議員に当選し、死去するまで在任した[3][5]。
栄典
[編集]著作
[編集]- 閲、肝付兼武著『勧業順序』明治閣、1879年。
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 安岡昭男編『幕末維新大人名事典』上巻、新人物往来社、2010年。
- 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』柏書房、1995年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 菅原姓五条家初代 1884年 - 1897年 |
次代 五条為功 |