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井幡博康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
井幡 博康
名前
カタカナ イバタ ヒロヤス
ラテン文字 IBATA Hiroyasu
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1974-06-25) 1974年6月25日(50歳)
出身地 北海道札幌市[1]
身長 176cm
体重 71kg
選手情報
ポジション MF
ユース
1991-1993 日本の旗 室蘭大谷高校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1994-1996 日本の旗 名古屋グランパスエイト 0 (0)
1996-1999 日本の旗 本田技研 42 (16)
2000-2001 日本の旗 ジェフユナイテッド市原 20 (4)
通算 62 (20)
監督歴
2013 日本の旗 ツエーゲン金沢U-18
2014-2020 日本の旗 Honda FC
2021- 日本の旗 FCマルヤス岡崎
1. 国内リーグ戦に限る。2020年12月18日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

井幡 博康(いばた ひろやす、1974年6月25日 - )は、北海道札幌市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMF

来歴

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札幌市立羊丘中学校を卒業後に単身ブラジルへ渡りサッカー留学。帰国後に室蘭大谷高校へ入学。1年時より抜群のテクニックで10番を背負い、冬の選手権では準々決勝の市立船橋高校戦で芸術的なループシュートで先制点を決めるも1-2で敗れる。その大会の優秀選手に選出される。2年時も1学年上で日本ユース代表の佐藤尽とともに道内では敵なしの強さをほこるが選手権では1回戦敗退。3年時には予選決勝で姉妹校の登別大谷高校に涙をのむ形となった。

注目をあびながらも大きな大会で結果を残せなかったが、その実力から1994年名古屋グランパスエイトへ入団。2年間所属したが出場機会のないまま戦力外通告を受け退団、ジャパンフットボールリーグ(JFL)の本田技研へ移籍。1999年には14試合11得点と活躍したことから、ジェフユナイテッド市原への移籍が決定した。2000年に25歳にしてJリーグデビューを飾り、8月19日の対川崎フロンターレ戦では残留争いのライバルを相手に貴重な決勝ゴールを挙げるなど、シーズン3得点をマークした。しかし、2001年には出場機会が減少し、シーズン終了後に戦力外通告を受け退団。現役引退した。

2008年1月、浜松大学サッカー部コーチに就任する事が同大学より発表された。それ以前には常葉学園橘高校サッカー部にて長澤和明に師事する形で指導に携わっており、同大学サッカー部でも長澤に師事する形で指導に携わっている[1]2013年ツエーゲン金沢U-18の監督を務めた[2]

2014年より、JFLHonda FCの監督に就任[3]。就任の経緯については後年に「自分が現役の時もお世話になって、Jに戻ることもできた。もう一度チャレンジすることを教えてくれたクラブ。恩返しができればと思った」と語っている[1]

2020年10月16日、同年シーズン限りでHonda FCの監督を退任すると発表された[4]

2021年8月よりFCマルヤス岡崎の監督に就任[5]

2022年5月13日、選手に対する不適切な発言が確認されたとして井幡に対してチームが制裁金を科していたことが明らかとなった。具体的には2021年7月から8月にかけて「今年、お前を使うことは無い」「もう、死んでくださーい」など発言があったと複数の選手から申告があり、外部弁護士による調査で不適切な発言があったとしている[6][7]

所属クラブ

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個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1994 名古屋 - J 0 0 0 0 0 0 0 0
1995 0 0 - 0 0 0 0
1996 0 0 0 0 0 0 0 0
1996 本田 29 旧JFL 4 0 - 2 0 6 0
1997 24 5 - 3 1 27 6
1998 8 0 0 - 0 0 0 0
1999 JFL 14 11 - 3 5 17 16
2000 市原 15 J1 15 3 3 0 2 0 20 3
2001 5 1 3 0 1 0 9 1
通算 日本 J1 20 4 6 0 3 0 29 4
日本 JFL 14 11 - 3 5 17 16
日本 旧JFL 28 5 - 5 1 33 6
総通算 62 20 6 0 11 6 79 26

指導歴

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参考文献

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脚注

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関連項目

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外部リンク

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