井染道夫
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井染 道夫(いそめ みちお、1901年(明治34年)12月10日[1] - 没年不詳)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)理事。
経歴
[編集]井染祿朗(陸軍中将)、好美の長男として生まれた[1][2]。1923年(大正12年[注釈 1])明治大学商科を卒業した[2]。大倉商事電気課長、居初電解精油取締役、北東漁業取締役などを務めた[2]。
サッカー歴
[編集]1917年(大正6年)に日本初のサッカー・クラブチームとして発足した、東京蹴球団に選手として参加。
1921年(大正10年)、上海で行われた第5回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、選手として出場。この時の代表チームは日本サッカー史上初めての選抜チームとされている。また同年の明治大学体育会サッカー部の発足に於いては、中心的な役割を果した。他に、海軍機関学校のコーチなども務めた。
1923年(大正12年)12月、父・井染祿朗が寄贈した「井染杯」をかけて、第1回全国大学専門学校ア式蹴球大会が開催され、明治大学、慶應義塾大学、立教大学、法政大学、水戸高等学校の5校が参加。1925年の第3回大会まで開催された。
1923年12月23日に、関東大震災の犠牲となって死去したサッカー愛好者のイギリス外交官ウィリアム・ヘーグの追悼会と追悼試合が開催されたが、これらの実現を世話している[3]。
1929年に大日本蹴球協会(現在の日本サッカー協会(JFA))の理事に就任した(後に顧問)。
代表歴
[編集]出場大会
[編集]親族
[編集]- 父 井染祿朗(陸軍中将)[4]
- 兄弟 井染成夫(医師)
- 兄弟 井染壽夫(中小企業金融公庫総務部長)
- 兄弟 井染具夫(陸軍少佐)[4]
- 伯父 吉田護郎(陸軍少佐)[4]
- 叔母 吉田鞆子(貞明皇后御用掛)[5]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『大衆人事録 第14版 東京篇』イ51頁では大正14年。