コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

井野川利春

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
井野川 利春
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岡山県玉野市
生年月日 (1908-03-30) 1908年3月30日
没年月日 (1976-06-16) 1976年6月16日(68歳没)
身長
体重
173 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手内野手
プロ入り 1940年
初出場 1940年
最終出場 1949年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 門司鉄道局
  • 阪急軍
    阪急ブレーブス (1940 - 1942, 1947 - 1948)
  • 東急フライヤーズ
    東映フライヤーズ (1949 - 1950, 1952 - 1954)

井野川 利春(いのかわ としはる、1908年3月30日 - 1976年6月16日)は、岡山県玉野市出身のプロ野球選手監督審判員

来歴・人物

[編集]

関西中学校在学時代から捕手。明治大学ではレギュラーをつとめる。1932年に卒業後当時九州の実業団で強豪と謳われた門司鉄道局に入局し中心打者となり1936年には監督兼任捕手としてチームを都市対抗野球大会覇者に導いた。その間の1934年日米野球の全日本選抜メンバーに選出され、全18試合中11試合に出場し、23打数8安打1本塁打,打率.348とチームトップの成績を残した[1]。これらの功績が阪急軍の球団首脳の目に留まり1940年同じ肩書きのまま入団。召集される前年の1942年までプレー。

復員後1947年から復帰したがこの時は浜崎真二が監督をつとめており助監督兼任にとどまる。1949年東急フライヤーズに移籍。その年は選手兼任で指揮していたが1950年から引退して専任に。1951年は大学の先輩で当時総監督として籍を置いていた安藤忍に指揮権をゆだねたが、1952年から再び指揮をとりチーム名が東映となった1954年まで監督をつとめた。

1955年パシフィック・リーグの東京審判部に入局。1966年まで審判をつとめこの間審判部副部長を務めた[2]。1976年6月16日にがん性腹膜炎のため死去[2]。享年68。

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1940 阪急 73 282 237 17 51 5 0 2 62 20 5 -- 3 0 40 -- 2 35 -- .215 .333 .262 .595
1941 22 56 46 3 8 2 0 1 13 5 2 -- 1 -- 9 -- 0 7 -- .174 .309 .283 .592
1942 20 48 38 2 5 2 0 0 7 3 1 0 0 -- 10 -- 0 5 -- .132 .313 .184 .497
1947 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 -- 0 0 -- .000 .000 .000 .000
1948 3 3 3 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 -- 0 -- 0 0 -- .000 .000 .000 .000
1949 東急 1 1 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 1 -- 0 -- 0 0 -- ---- ---- ---- ----
通算:6年 120 391 325 22 64 9 0 3 82 30 8 0 5 0 59 -- 2 47 -- .197 .324 .252 .576

年度別監督成績

[編集]
年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率
1940 阪急 3位 32 20 12 0 .625
1941 2位 85 53 31 1 .631
1942 4位 105 49 50 6 .495
1949 東急
東映
7位 138 64 73 1 .467
1950 6位 120 51 69 0 .425
1952 6位 108 49 59 0 .454
1953 6位 120 50 67 3 .427
1954 7位 140 52 86 2 .377
通算:8年 848 388 447 13 .458
  • 1940年は9月15日から閉幕まで
  • 東急(東急フライヤーズ)は、1954年に東映(東映フライヤーズ)に球団名を変更

背番号

[編集]
  • 25 (1940年)
  • 30 (1941年 - 1942年、1949年 - 1950年、1952年 - 1954年)
  • 40 (1947年 - 1948年)

出典

[編集]
  1. ^ ブログ・Kiryu Taroと申す(1934年日米野球試合)
  2. ^ a b 『朝日新聞』1976年6月17日付朝刊 (13版、23面)

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]