佐々木氏信
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(京極氏信から転送)
時代 | 鎌倉時代中期 |
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生誕 | 承久2年(1220年) |
死没 | 永仁3年5月3日[1][2](1295年6月16日) |
別名 | 氏綱、四郎[1]、四郎左衛門尉[2]、京極氏信 |
戒名 | 清滝寺殿道善大居士 |
墓所 | 滋賀県米原市の徳源院 |
官位 | 従五位上[1][2]、左衛門尉[1]、検非違使[2]、対馬守[2]、近江守[1][2] |
幕府 | 鎌倉幕府 引付衆、評定衆 |
主君 | 藤原頼嗣→宗尊親王 |
氏族 | 近江源氏佐々木氏(京極氏) |
父母 | 父:佐々木信綱[1]、母:川崎為重娘[3]? 北条義時娘[2]? |
兄弟 | 大原重綱、高島高信、六角泰綱、氏信、藤原和泉守行方室 |
妻 | 野尻時光の娘 |
子 |
頼氏[4][2]、範頼[4][注釈 1]、満信[4][2]、 宗綱[2]、信雅[2]、加地経綱正室[2]、 吉良満氏側室[注釈 2])、上田佐時正室、武石宗胤正室[注釈 3])、久明親王側室 |
佐々木 氏信(ささき うじのぶ)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。佐々木氏支流京極氏の始祖。京極氏信とも。鎌倉の桐ヶ谷[注釈 4]にも住しており、桐谷氏[注釈 5]とも呼ばれた。
生涯
[編集]承久2年(1220年)、後に近江国守護に任ぜられる佐々木信綱と、川崎為重の娘との間に四男として生まれたとされる[3]。2代執権・北条義時の娘との間に生まれたとする説もある。
仁治3年(1242年)に父が死去し、江北に在る高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡と京都の京極高辻の館を継ぐ。これにより子孫は後に京極氏と呼ばれるようになり、江南と京都の六角堂近くの館を継いだ三兄・泰綱は佐々木本家を継ぎ六角氏の祖となる。長兄・重綱と次兄・高信も坂田郡大原庄と高島郡田中郷を相続、大原氏・高島氏の祖となる。
文永2年(1265年)に引付衆、翌年には評定衆に加わり、弘安6年(1283年)には近江守へと任ぜられ、この頃には後に京極氏の菩提寺となる清滝寺(後の徳源院)を創建している。永仁3年(1295年)5月3日、死去。享年76。
長男の頼氏は桐谷に住み別家を立てた。次男の範頼、三男の満信は共に早世したため、四男の宗綱が家督を継ぐ。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。
- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。国立国会図書館デジタルコレクション
- 『西讃府史』
- 黒板勝美『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』国史大系編修会(編)、吉川弘文館、1966年。ISBN 4642003649。