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人間嫌い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
人間ぎらいから転送)
1719年刊行版の表紙

人間嫌い:あるいは怒りっぽい恋人』(仏語原題: Le Misanthrope ou l'Atrabilaire amoureux )は、モリエール戯曲。1666年発表。パレ・ロワイヤルにて同年6月4日初演。

モリエールは「高貴な宮廷人や知識人でも、平民でも楽しめるような」作品を書くことを念願としており[1]、本作でそれを試した。その結果、前者には好評を博したが、後者には不評を買い、モリエールの期待は裏切られた。そのため、本作を基点に作風を転換することとなる[2]

登場人物

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  • アルセスト - セリメーヌの恋人。
  • フィラント - アルセストの友人。
  • オロント - セリメーヌの恋人。
  • セリメーヌ - アルセスト、オロントの恋人。奔放な女。
  • エリアント - セリメーヌの従姉。
  • アルシノエ - セリメーヌの女友達。
  • アカスト - 貴族。侯爵。
  • クリタンドル - 貴族。侯爵。
  • バスク - セリメーヌの従僕。
  • デュ・ボワ - セリメーヌの従僕。
  • 貴族警察所の警吏

あらすじ

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舞台はパリ。セリメーヌの家。

第1幕

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フィラントとアルセストの会話から始まる。フィラントはお世辞を巧みに使い、上手く人と付き合うことのできる青年だが、アルセストはその逆で、いかなる場合でも本心から出る言葉を吐くべきだと考えている。そのような考えを抱いているから、アルセストにはフィラントの態度が現代の悪風そのものに映るので、議論となってしまう。だがアルセストは、その悪風が根の深いところまで染み込んでいるセリメーヌを好いているのであった。そこへオロントが現れる。彼は自作のソネットを披露するが、お世辞の言えないアルセストは面と向かってそれを貶してしまい、険悪な雰囲気となってしまった。それ見たことかとフィラントは言うが、アルセストは耳を貸そうとしない。

第2幕

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アルセストはセリメーヌが色んな男をたぶらかそうとしている、その奔放さが我慢できないので、注意をしにきた。そのような態度を改めるようセリメーヌに迫るが、のらりくらりとかわされてしまう。そこへエリアントがアカストとクリタンドルを伴ってやってきた。他人の悪口や噂話に花を咲かせる彼らの話を黙って聞いていたが、このような人物たちと付き合っているから、セリメーヌがあのようになってしまうのではないかと考え、食ってかかるアルセスト。そこへ警吏が登場。オロントのソネットを貶した件で、調停をするから出頭せよという。意見は曲げないと誓いながらも、しぶしぶアルセストは出頭に応じる。

第3幕

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アルシノエが登場。散々彼女の陰口をたたいていたセリメーヌだったが、アルシノエが現れると途端に豹変し、歓迎する。アルシノエは、セリメーヌの日頃の行為から来る評判が思いのほか悪いことを忠告しに来たのであったが、セリメーヌは耳を貸すどころか、逆にやり返してしまった。その帰り際、アルシノエはアルセストに出会った。彼女はセリメーヌに恋をするなんて、早く目を覚ましたほうが良いと彼にも忠告するが、アルセストも耳を貸さない。それなら、セリメーヌの不義を証拠をつけて示してみせようと、自宅にアルセストを招くアルシノエ。

第4幕

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エリアントはアルセストの「正直すぎる」ところを高く評価し、恋心を抱いていた。だがフィラントはエリアントを想っている。もしアルセストの気持ちがセリメーヌに届き、恋が叶わなかった場合には、自分を選んでほしいとフィラントは告げる。そこへアルセストが興奮しながらやってきた。アルシノエからセリメーヌの不義の証拠(=手紙)を手に入れたので、セリメーヌの自分に対する侮辱に憤慨しているのである。そこへセリメーヌがやってきた。アルセストはここぞとばかりに親しげな情愛が認められた手紙を彼女に突きつけるが、セリメーヌは「その手紙は女性に宛てたもの」と弁解する。そこへデュ・ボワがやってきた。以前より継続していた裁判に関連して「速やかにこの土地から立ち去る」ように使者が述べたという。状況が把握できないので、ひとまずセリメーヌの前から退散するアルセスト。

第5幕

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アルセストは裁判に敗訴し、ますます人間社会への不信を募らせた。正義はこちらにありながらも、相手の奸策によって、その正義が蹂躙されたと考えているのだ。隠遁生活を送る決心をしながらも、セリメーヌへの恋心を忘れられず、ついにオロントと共に、どちらを選ぶのか決心するようにセリメーヌに迫る。そこへアルシノエが、アカストとクリタンドルを伴ってやってきた。セリメーヌがこの2人の男性に宛てた手紙には、様々な人物への辛辣な評が並べ立てられていたのであった。それを知って一気に熱情から冷め、手を引くオラント。恋敵のいなくなったアルセストはなおもセリメーヌを愛していたため、ともに隠遁生活についてくるよう彼女には告げるが「退屈で耐えられない」と断られてしまう。ますます絶望して、隠遁の地を探しに出かけるアルセスト。それを心配し、止めに行くエリアントとフィラントであった。

成立過程

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1664年に公開された「タルチュフ」は当時のキリスト教信者たちを愚弄する内容であったが、それを巡って、モリエールは激しい攻撃に晒されていた。彼らが強い政治的な力を持っていたために、「タルチュフ」とその作者モリエールに好意的であった国王ルイ14世も彼らの猛抗議を無視できず、やむなく「タルチュフ」は上演禁止となった[3]

それ以後も攻撃は止まず、翌年初演の「ドン・ジュアン」は、その大反響にも拘らず上演を早々に打ち切らねばならなかった。このほか、家庭生活の不和(妻の浮気や息子の夭折など[4])、友人関係のあったラシーヌの裏切りなどもあって、持病の胸部疾患が極度に昂進し、休養を取らねばならなくなった[5]

一時は死亡したという噂さえ広まったが、復活し、その直後に上演されたのが「人間嫌い」である。モリエールが珍しくたっぷりと時間をかけて書き上げた[6]作品で、上演開始前にオルレアン公爵夫人のサロンで朗読され、高尚な趣味と教養を持つ宮廷人や識者たちの大変な好評を獲得した[7]

6月4日、パレ・ロワイヤルで上演が開始された。第2回公演まではまずまずの成績を上げたが、それ以後は客足が鈍っていった。というのも、17世紀中盤までのフランスの一般市民の趣味は、「ズボンの中に(汚物を)垂れ流した」と聞いて大笑いするような、現代からすれば全く下品なものであった[8]ため、本作にて描かれているような、繊細な人物の心理表現がわからなかったのである[9]

鈍った客足をどうにかするための、梃入れ策として『いやいやながら医者にされ』が書き上げられ、客足は回復した[7]

評価

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「人間嫌い」の初演は惨憺たる結果であったが[10][11]、その翌日1人の男が私の父を喜ばせようとして大急ぎでこのような知らせを持ってやってきた。「あの作品は失敗です。あれほど冷たいものはありません。私はこの目で見てきたのですから、信用してくださって結構です!…」すると私の父は、「あなたはご覧になったのかもしれないが、私は観に行っていません。ですが、その言葉をそっくり信用する気にはなれないのです。モリエールがその程度の出来の作品を書くはずがないからです。もう一度観に行って、確かめて御覧なさい。 ― ルイ・ラシーヌ、ジャン・ラシーヌの息子[12][13]
モリエールは彼の傑作「人間嫌い」の上演を中断し、「いやいやながら医者にされ」を添え物として公演を再開した。これは極めて陽気で滑稽なファルスであり、素朴な民衆はこのような作品を必要としていたのである。(中略)「医者」は「人間嫌い」を支えた。それは人類に取って恥ずかしいことであるかもしれないが、しかし人類とはもともとそのようにできている。人々は教えられるためにではなく、笑うために劇場へ出かけていく。「人間嫌い」は聡明な人々のために書かれた賢者の作品であったが、その賢者は大衆を喜ばせるために、道化師に変装せざるを得なかったのである ― ヴォルテール[6][14]
スカパンのもぐりこむあの笑うべき袋の中には、もはや「人間嫌い」の著者の姿を見ることはできない ― ニコラ・ボアロー=デプレオー[15][16]
アルセストの体現するものこそ美徳であり、作者はアルセストを嘲笑することによって美徳そのものを嘲笑した― ジャン=ジャック・ルソー(演劇に関するダランベール氏への手紙 より)[17][18]

特徴・補足

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翻訳

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  • フランス語の題名「Le Misanthrope」は「人間を嫌う男」くらいの意味であり、明治以降「厭人家」や「人間嫌い」などと訳されてきた。また、辰野隆は杜甫の詩の一節「秋風吹孤客」から採って「孤客」なる題名を附した。他に鈴木力衛は、副題 「l'Atrabilaire amoureux」 を訳した「怒りっぽい恋人」を題名としている。
  • 草野柴二はこの作品を「健闘家」と言う題名で第二幕まで訳しながら、結局最後まで訳さなかった。これは主人公アルセストの性格の一端が自分と酷似していて、薄気味悪くなったからと言われている[22]

日本語訳

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  • 『人間嫌ひ』関口存男訳、岩波文庫、1928年
  • 『人間嫌ひ』吉江喬松訳、改造文庫、1939年[23]
  • 『孤客(ミザントロオプ)』辰野隆訳、岩波文庫、1950年、改版1976年 再改版2008年
  • 『人間ぎらい』内藤濯訳、新潮文庫、1952年、のち改版(電子書籍で再刊)
    • 元版『人間ぎらい』内藤濯 訳、(世界文學全集 6 佛蘭西古典劇集 所収)、新潮社、1928年
  • 『厭人家』坪内士行訳、(モリエール全集 所収)、天佑社、1920年
  • 『世間嫌い』井上勇訳、(ドン・ジュアン 他二篇 所収)、聚英社、1923年
  • 『人間嫌い』井上勇 訳、(古典劇大系 第七卷 佛蘭西篇(1) 所収)、近代社、1924年
  • 『人間嫌ひ』吉江喬松訳、(モリエール全集 第二卷 所収)、中央公論社、1934年
  • 『人間嫌ひ』内藤濯 訳、(モリエエル傑作集 所収)、新潮文庫、1937年
    • 元版 『人間ぎらい』内藤濯 訳、(世界文學全集 6 佛蘭西古典劇集 所収)、新潮社、1928年
  • 『人間ぎらい』内藤濯 訳、(モリエール喜劇集 所収)、生活社、1948年
  • 『ミザントロオプ(孤客)』辰野隆 訳、(モリエール選集 1 所収)、南北書園、1949年
  • 『孤客(ミザントロオプ)』辰野隆 訳、(世界文学全集古典篇 11 モリエール篇 所収)、河出書房、1951年
  • 『孤客(ミザントロオプ)』辰野隆 訳、(モリエール名作集 所収)、白水社、1951年
  • 『人間ぎらい-もしくは「怒りっぽい恋人」-』 内藤濯 訳、(決定版 世界文学全集 第三期3巻 所収)、河出書房、1958年
  • 『孤客(ミザントロオプ)』辰野隆 訳、(世界文学大系 14 古典劇集篇(朱版) 所収)、筑摩書房、1961年
  • 『孤客(ミザントロオプ)』辰野隆 訳、(世界文学大系 29 古典劇集篇(黒版) 所収)、筑摩書房、1961年
  • 『孤客(ミザントロオプ)』辰野隆 訳、(世界古典文学全集 47 モリエール篇 所収)、筑摩書房、1965年
  • 『怒りっぽい恋人[24](ル・ミザントロープ)』鈴木力衛訳(世界文学全集 第三集6巻 所収)、河出書房、1965年
  • 『ル・ミザントロープ もしくは 怒りっぽい恋人』鈴木力衛 訳、(モリエール全集 4 所収)、中央公論社、1973年
  • 『孤客(ミザントロオプ)』辰野隆 訳、(世界文学大系 18 古典劇集(白版) 所収)、筑摩書房、1975年

翻案

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  • 『喜劇 健闘家』 草野柴二 訳、明星 1904年12月号、1905年3月号 掲載[25]

脚注

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  • 「白水社」は「モリエール名作集 1963年刊行版」、「河出書房」は「世界古典文学全集3-6 モリエール 1978年刊行版」、「筑摩書房」は「世界古典文学全集47 モリエール 1965年刊行版」、「中央公論」は「モリエール全集 1973年刊行版」。
  1. ^ 守銭奴 岩波文庫 鈴木力衛訳 2006年発行 P.164-5
  2. ^ 河出書房 P.452,3
  3. ^ 筑摩書房 P.442,3
  4. ^ 白水社 P.597
  5. ^ 筑摩書房 P.447
  6. ^ a b 鈴木訳 P.95
  7. ^ a b 筑摩書房 P.450
  8. ^ 守銭奴 岩波文庫 鈴木力衛訳 2006年発行 P.165
  9. ^ a b 河出書房 P.452
  10. ^ ラ・グランジェが遺した劇団の収支を記録した帳簿によれば、この表現は正しくない
  11. ^ いやいやながら医者にされ P.90
  12. ^ 白水社 P.600,1
  13. ^ このころラシーヌとモリエールは仲違いを起こしていたが、ラシーヌの息子によって書かれたものであるため、いささか誇張が見られる上、自分の父を美化するような節が見られる。
  14. ^ グリマレのモリエールの伝記の影響を多分に受けており、「医者が人間嫌いを支えた」など所々誤った記述がある。
  15. ^ 岩波文庫所収鈴木訳 守銭奴 P.167
  16. ^ 「人間嫌い」のような高級な喜劇を書いたのち、「スカパンの悪だくみ」などの笑劇を書いて、低俗な大衆に媚びるのを苦々しく感じての発言。
  17. ^ モリエール喜劇集(生活社、1948年)所収の小場瀨卓三による「あとがき」p.421~422から
  18. ^ ルソーはアルセストが美徳の持ち主であり、フィラントを美徳を否定する考えの持ち主であると考えていて、しかもフィラントをモリエールの代弁者と思っていた事からの発言。
  19. ^ 1日のうちに、同一の場所で、ただ一つの筋を追って完結させなければならない、という法則。モリエールはほとんどの作品でこの法則を踏みにじっている。
  20. ^ 鈴木訳 P.90
  21. ^ 守銭奴』 岩波文庫 鈴木力衛訳 2006年発行 P.162
  22. ^ 中央公論4 P.461
  23. ^ 他にプスィシェを収載
  24. ^ 副題を採ってこの題名を附した。河出書房 P.453
  25. ^ 『明治翻訳文学全集《新聞雑誌編》23 モリエール集』 大空社、2000年、p.273~294