コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

仁井田陞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
仁井田 陞
人物情報
生誕 (1904-01-01) 1904年1月1日
日本の旗 日本 宮城県仙台市
死没 1966年6月22日(1966-06-22)(62歳没)
出身校 東京大学法学部
学問
研究分野 東洋史中国法制史
研究機関 東京大学
テンプレートを表示

仁井田 陞 (にいだ のぼる、1904年明治37年〉1月1日 - 1966年昭和41年〉6月22日)は、日本法制史学者東京大学名誉教授中田薫門下。中国法制史の開拓者として知られる。正三位勲二等瑞宝章宮城県仙台市生まれ。

経歴

[編集]

旧制松本高等学校文科甲類を経て、1928年に東京帝国大学法学部を卒業。東方文化学院東京研究所研究員に着任。第二次世界大戦中は華北農村、北京商工ギルドの調査に従事。戦後その研究成果として、法社会学的な観点も取り入れた『中国の社会とギルド』『中国の農村家族』を著した。本業の中国法制史の分野でも、『中国法制史』『中国法制史研究』(朝日賞受賞)などの大著を世に送り、学会をリードした。1942年、東京大学東洋文化研究所教授となる。

戦後も1964年まで東京大学東洋文化研究所に勤務。その間、東京大学東洋文化研究所所長もつとめた。退官に際して名誉教授となった。ロンドン訪問中に脳腫瘍を発病。日本に帰国するも、程なく没した。

受賞・栄典

[編集]

研究内容・業績

[編集]
  • 専門は中国法制史。1929年(昭和4年)、研究員として着任して最初の研究課題は「唐令の復旧並其の史的研究」で4年間で令(唐代の律令中の令)の逸文を和漢の典籍から収集・分析し、原法典の体系と条文の復元に初めて成功した。その研究報告書として『唐令拾遺』をまとめ[1][2]、1934年に帝国学士院恩賜賞を受賞した。続いて1933年(昭和8年)から「唐宋法律史文書の研究」の課題に取り組んだ[3]成果である名著『唐宋法律文書の研究』『支那身分法史』とともに、日本の中国法制史研究の水準を世界的レベルに引き上げた(但し、唐令の収集のほとんどは師の中田薫が行っていて[注釈 1]、仁井田は残りの収集と整理を行った)。
  • デニス・C・トゥウィチェットを教えている。

親族

[編集]

著書

[編集]

単著

[編集]

編集

[編集]

共著

[編集]

追悼論文集

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 東京大学東洋文化研究所図書室には、1901年に書き上げられた中田の署名入り『唐令拾遺』直筆原稿(第2稿)が所蔵されている[4]

出典

[編集]
  1. ^ 中田薫『唐令拾遺 序』東方文化学院、1933年、1 - 2頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1454081/1/5 
  2. ^ 仁井田陞『唐令拾遺 自序』東方文化学院、1933年、1頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1454081/1/7 
  3. ^ 仁井田『唐宋法律文書の研究 序』1937年、1頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1271576/1/5 
  4. ^ UTokyo opac(東京大学OPAC)”. 東京大学附属図書館. 2024年6月18日閲覧。

外部リンク

[編集]