今城青坂稲実池上神社 (上里町忍保)
今城青八坂稲実池上神社 | |
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所在地 | 埼玉県児玉郡上里町忍野225 |
位置 | 北緯36度16分08.7秒 東経139度09分14.0秒 / 北緯36.269083度 東経139.153889度座標: 北緯36度16分08.7秒 東経139度09分14.0秒 / 北緯36.269083度 東経139.153889度 |
主祭神 |
伊吹戸主神 豊受姫命 |
社格等 |
式内社 県社 |
創建 | 不詳 |
本殿の様式 | 流造 |
別名 | 池上神社 |
例祭 | 10月17日に近い日曜日 |
地図 |
今城青八坂稲実池上神社(いまきあおやさかいなみいけがみじんじゃ)は、埼玉県児玉郡上里町忍野の利根川支流の烏川沿いにある神社。祭神は伊吹戸主命、豊受姫命の2柱。武蔵国賀美郡の延喜式内「今城青八坂稲実池上神社」の論社、旧社格は県社。
由緒
[編集]高度な稲作技術を持った渡来系氏族が、烏川沿岸の忍野に稲作の神「豊受姫命」を守護神として和銅4年(711)に創祀した。[1]
その後、渡来系氏族の衰えにより荒廃し、「今城青八坂稲実池上神社」の社号は失われ「稲荷社」と呼ばれていたが、元弘年間(1331-1334)に新田義貞が金窪城の鬼門除けとして再建した。この時に鬼門除けのため、祓戸四神の一神「伊吹戸主命」が勧請されたと思われる。 延元3年(1338年)に季子義宗が金久保の領主となり、戦勝祈願した。 貞治2年(1363年)に関東管領となった上杉憲顕が金窪の領主となり、応安元年(1368年)に国境の平穏を祈った。[1]
大永4年(1524年)に斎藤盛光が金窪城主となり、新田氏と同様に城の守護神とした。[2] 天正10年(1582年)6月には、武蔵国賀美郡が織田信長の家臣の滝川一益と北条氏政ら北条軍の「神流川の戦い」で戦場となった。兵火により社殿が焼失した。[1] 天正19年(1590年)1月に金窪の領主となった川窪信俊が、天正19年(1591年)に焼失した社殿を再建、神田が寄進された。川窪信俊は武田信玄の弟「武田信実」の子に当たる。 元禄7年(1694年)に、烏川の氾濫で社殿が流された。流された本殿を引き上げ、高くした基礎上に修繕を加えて再建した。 元禄11年(1698年)に、川窪信俊の孫、武田信貞が丹後国に転領した。 金窪城は廃城となり、当社は衰退していった。[1]
元文3年(1738年)には、地頭から鳥居の再建、供米の奉納があった。 嘉永年間(1848年-1854年)には、地頭から社殿の修繕、神田が寄進された。[1]
明治5年(1872年)には、社名を「稲荷社」から現在の「今城青八坂稲実池上神社」へ復称した。[1]
社格 [1]
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一の鳥居
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二の鳥居
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神楽殿
- 伊吹戸主命(いぶきどぬしのみこと)
合祀
- 豊受姫命(とようけひめのかみ)
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八坂社
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宮西神社
- 歳旦祭(1月2日)
- 祈年祭(3月17日)
- 大祓式(6月30日)
- 斎田祭(7月25日)
- 例大祭(10月17日に近い日曜日)
- 新嘗祭(11月27日に近い日曜日)
- 大祓式(12月29日)