仙頭武央
仙頭 武央(せんとう たけなか/たけてる、1864年10月3日(元治元年9月3日) - 1919年(大正8年)12月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。幼名、外太郎。
履歴
[編集]1864年(元治元年)、土佐国安芸郡穴内村(現在の安芸市)に生まれた。父、武英は旧藩時代の安芸町寄役。申議学舎で船本楠吉に学び、1883年(明治16年)10月、海軍兵学校(10期)を卒業し海軍少尉補となる。1886年(明治19年)4月、海軍少尉任官。
日清戦争には「千代田」分隊長として出征。1896年(明治29年)7月、「鎮遠」砲術長となり、「平遠」副長を経て、1897年(明治30年)12月、海軍少佐に昇進し「浅間」回航委員に発令されイギリスに出張。「浅間」砲術長を経て、1898年(明治31年)10月、海軍中佐に進級。
1898年12月、造兵監督官に就任し、「須磨」「浪速」「八雲」の各副長、海兵砲術教官、兼海兵監事長、呉鎮守府艤装委員などを歴任し、1903年(明治36年)10月、「対馬」艦長に着任。コルサコフ海戦や日本海海戦に参加した。1905年(明治38年)1月、海軍大佐に昇進。同年8月、「浪速」艦長に就任し、以後、「春日」「八雲」「周防」「鈴谷」(兼)の各艦長を勤める。1908年(明治41年)5月、横須賀海兵団長となり、兼海軍砲術学校長、呉海兵団長を歴任。
1910年(明治43年)12月、海軍少将に進級し鎮海防備隊司令官兼臨時建築部支部長に就任。以後、呉予備艦隊司令官、呉鎮守府艦隊司令官を歴任。1913年(大正2年)12月に待命。1914年(大正3年)12月1日、海軍中将に進むと同時に予備役編入となった[1]。1919年(大正8年)12月11日没。
栄典・授章・授賞
[編集]- 1886年(明治19年)7月8日 - 正八位[2]
- 1891年(明治24年)12月16日 - 従七位[3]
- 1898年(明治31年)10月31日 - 正六位[4]
- 1909年(明治42年)3月1日 - 正五位[5]
- 1914年(大正3年)3月10日 - 従四位[6]
- 1915年(大正4年)1月11日 - 正四位[7]
脚注
[編集]参考資料
[編集]- 「明治37年3月1日 - 明治37年12月1日 軍艦対馬現状報告」(ref:C10100486400)
- 「軍艦対馬戦時日誌(7)」(ref:C09050403000)
- 『高知県人名事典』高知市民図書館、1970年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。