伊号第四百潜水艦
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伊号第四百潜水艦 | |
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写真は同型艦の伊401 | |
基本情報 | |
建造所 | 呉海軍工廠 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 一等潜水艦 |
級名 | 伊四百型潜水艦 |
建造費 | 28,861,000円 |
艦歴 | |
計画 | 昭和18年度計画(改⑤計画) |
起工 | 1943年1月18日 |
進水 | 1944年1月18日 |
竣工 | 1944年12月30日 |
除籍 | 1945年9月15日 |
その後 | 1946年6月4日、標的艦として海没処分 |
要目 | |
基準排水量 | 3,530トン |
常備排水量 | 5,223トン |
水中排水量 | 6,560トン |
全長 | 122m |
最大幅 | 12.0m |
吃水 | 7.02m |
機関 |
艦本式22号10型ディーゼルx4基 1,200馬力モーターx2基 |
推進 | 2軸 |
出力 |
水上:7,750馬力(5,843.5 kW) 水中:2,400馬力(1,788 kW) |
速力 |
水上:18.7kt 水中:6.5kt |
燃料 | 重油:1,750トン |
航続距離 |
水上:14ktで37,500海里 水中:3ktで60海里 |
潜航深度 | 安全潜航深度:100m |
乗員 | 157名 |
兵装 |
40口径十一年式14cm単装砲x1門 九六式25mm三連装機銃x3基9挺 九六式25mm単装機銃x1挺 九五式53cm魚雷発射管x8門(艦首8門)/魚雷x20本 |
搭載機 |
晴嵐x3機 四式1号10型射出機x1基 |
レーダー |
22号電探x1基 13号電探x1基 |
伊号第四百潜水艦[1](いごうだいよんひゃくせんすいかん)は、第二次世界大戦中の大日本帝国海軍の潜水艦。伊四百型潜水艦の一番艦。
概要
[編集]潜水空母と俗称される本艦は、独創的な構造で3機の特殊攻撃機『晴嵐』を搭載し、かつ、地球一周半分の長大な航続距離を持っており、日本海軍最高の秘密兵器といわれた。この能力は、アメリカ西海岸のアメリカ艦隊への攻撃や、パナマ運河への攻撃を企図して持たせられたものであったが、完成した頃には本土周辺の制海権・制空権すら完全に失われており、本艦が活躍する余地は残されていなかった。
2013年8月にハワイ諸島オアフ島南西沖の海底からハワイ海底研究所が伊号第400潜水艦の残骸を発見した。この発見はアメリカ海洋大気庁によって米国国務省と日本の政府関係者に確認され、同年12月2日に公表された[2]。2015年5月にはNHKがハワイ大学と共同で2014年10月に行った調査で撮影された映像が放送され、この時に発見された『晴嵐』格納筒などの映像が公開された[3]。船体は上下正しい向きで沈んでいるが、船体中央部には魚雷が命中した大穴があいており、船首部も破損している。格納塔扉は脱落して海底に落ちている。格納塔も船体から脱落しており、格納塔に一体化している司令塔は横倒しになっている[3]。
2016年には船鐘が回収された。この船鐘は復元後にUSSボーフィン潜水艦博物館に展示される予定である。[4]
艦歴
[編集]- 1943年(昭和18年)1月18日 - 呉海軍工廠で起工。戦艦大和を建造したドックで建造される[3]。
- 12月22日 - 「伊号第四百潜水艦」と命名[1]。
- 1944年(昭和19年)1月18日 - 進水。
- 12月30日 - 竣工。連合艦隊第6艦隊第1潜水隊に所属。内海で訓練に従事。
- 1945年(昭和20年)4月 - 大連で燃料補給。
- 5月 - 燃料と物資を搭載して内地に戻る。
- 6月 - 七尾湾で艦載機の発着訓練に従事。
- 7月20日 - 呉湾を出撃(後の海上自衛隊潜水艦埠頭より)[3]。
- 7月23日 - ウルシー攻撃のため「神龍特別攻撃隊」として大湊を出港[5]。
- 8月 - モーター室火災を起こして修理、隔壁閉鎖が出来なくなる[6]。
- 8月14日 - 伊401との会合予定海域に到着[3]。
- 8月15日 - 終戦をウルシー南方海面で迎え、日本へ帰投することを決定する。3機の『晴嵐』はカタパルトから射出して海中に投棄して処分した[3]。
- 8月27日 - 浮上航行中に米軍機に発見される[7]。
- 8月29日 - 三陸沖で米駆逐艦「ブルー」に発見、捕獲される。
- 8月30日 - 横須賀港に帰港。
- 9月15日 - 除籍。
- 10月 - 佐世保港へ回航。
- 1946年(昭和21年)1月 - 佐世保を出港、アメリカ本土に回航し技術調査される。
- 6月4日 - ハワイ近海で実艦標的として魚雷で撃沈処分[3].
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』442頁による。
艤装員長
[編集]- 日下敏夫 中佐:1944年9月1日 -
艦長
[編集]- 日下敏夫 中佐:1944年12月30日 -
脚注
[編集]- ^ a b 昭和18年12月22日付 海軍大臣達 第319号。四〇〇ではない。
- ^ “Giant World War II aircraft-carrying submarine discovered off Oahu coast”. University of Hawaiʻi at Mānoa. (2013年12月2日) 2013年12月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『歴史秘話ヒストリア』第216回「幻の巨大潜水艦 伊400 日本海軍 極秘プロジェクトの真実」 2015年5月6日放送
- ^ “Bronze bell recovered from World War II aircraft-carrying submarine off Oahu coast”. University of Hawaiʻi at Mānoa. (2013年3月16日) 2016年3月30日閲覧。
- ^ #一海軍士官174頁
- ^ #一海軍士官180頁
- ^ #一海軍士官183頁
参考文献
[編集]- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0462-8
- 斉藤一好『一海軍士官の太平洋戦争 等身大で語る戦争の真実』高文研、2001年。ISBN 4-87498-272-7。
1944年8月艤装員着任、竣工後は「伊四〇〇」水雷長。 - 外山操『艦長たちの軍艦史』(光人社、2005年) ISBN 4-7698-1246-9
関連項目
[編集]- 大日本帝国海軍艦艇一覧
- 山西義政 - 実業家、元乗組員