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佐々木氏信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐々木氏綱から転送)
 
佐々木氏信
時代 鎌倉時代中期
生誕 承久2年(1220年
死没 永仁3年5月3日[1][2]1295年6月16日
別名 氏綱、四郎[1]、四郎左衛門尉[2]、京極氏信
戒名 清滝寺殿道善大居士
墓所 滋賀県米原市徳源院
官位 従五位上[1][2]左衛門尉[1]検非違使[2]対馬守[2]近江守[1][2]
幕府 鎌倉幕府 引付衆評定衆
主君 藤原頼嗣宗尊親王
氏族 近江源氏佐々木氏京極氏
父母 父:佐々木信綱[1]、母:川崎為重[3]? 北条義時[2]?
兄弟 大原重綱高島高信六角泰綱氏信藤原和泉守行方
野尻時光の娘
頼氏[4][2]範頼[4][注釈 1]満信[4][2]
宗綱[2]、信雅[2]加地経綱正室[2]
吉良満氏側室[注釈 2])、上田佐時正室、武石宗胤正室[注釈 3])、久明親王側室
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佐々木 氏信(ささき うじのぶ)は、鎌倉時代中期の武将御家人佐々木氏支流京極氏の始祖。京極氏信とも。鎌倉の桐ヶ谷[注釈 4]にも住しており、桐谷氏[注釈 5]とも呼ばれた。

生涯

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承久2年(1220年)、後に近江国守護に任ぜられる佐々木信綱と、川崎為重の娘との間に四男として生まれたとされる[3]。2代執権北条義時の娘との間に生まれたとする説もある。

仁治3年(1242年)に父が死去し、江北に在る高島伊香浅井坂田犬上愛智の六郡と京都の京極高辻の館を継ぐ。これにより子孫は後に京極氏と呼ばれるようになり、江南と京都の六角堂近くの館を継いだ三兄・泰綱は佐々木本家を継ぎ六角氏の祖となる。長兄・重綱と次兄・高信も坂田郡大原庄と高島郡田中郷を相続、大原氏高島氏の祖となる。

文永2年(1265年)に引付衆、翌年には評定衆に加わり、弘安6年(1283年)には近江守へと任ぜられ、この頃には後に京極氏の菩提寺となる清滝寺(後の徳源院)を創建している。永仁3年(1295年)5月3日、死去。享年76。

長男の頼氏は桐谷に住み別家を立てた。次男の範頼、三男の満信は共に早世したため、四男の宗綱が家督を継ぐ。

脚注

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注釈

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  1. ^ 範綱とも。
  2. ^ 別の文献では「尾張二郎妻〔ママ〕」とある[2]
  3. ^ 別の文献では「武石肥前守胤妻〔ママ〕」とある[2]
  4. ^ 読みは「きりがや」。
  5. ^ (きりたに。

出典

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  1. ^ a b c d e f 今井尭ほか編 1984, p. 304.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 田村哲夫編修 1980, p. 230.
  3. ^ a b 黒板勝美 1966, p. 430.
  4. ^ a b c 今井尭ほか編 1984, p. 301.

参考文献

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  • 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多小西四郎竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQISBN 4404012403NCID BN00172373OCLC 11260668全国書誌番号:84023599 
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 西讃府史
  • 黒板勝美『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』国史大系編修会(編)、吉川弘文館、1966年。ISBN 4642003649