佐々木安五郎
佐々木 安五郎[1](ささき やすごろう[2]、1872年2月25日(明治5年1月17日) - 1934年(昭和9年)1月1日[2][3])は、日本の政治家、大陸浪人。衆議院議員(東京府第8区選出、当選4回)[2][4]。号は照山[3]。蒙古王の異名をとった。族籍は山口県平民[5][6]。
来歴
[編集]山口県豊浦郡阿川村(現下関市)に生まれる[1][4]。10代後半の時に政治に関心を持ち「点燈会」を作った[7]。隣村の滝部村で小学校の代用教員をしていたが、熊本の九州学院に入学し中国語を学んだ。1894年(明治27年)に卒業し[3]、日清戦争に陸軍の通訳として従軍、戦後は台湾総督府の吏員となった。しかし、乃木希典が総督を退くと総督府を辞職し、1898年(明治31年)には雑誌『高山國(たかさご)』[8]を発刊した。また『台湾民報』主筆となり、総督府の植民政策を批判した。鉱業に従事する[2]。
1904年(明治37年)、奈良県の資産家である土倉鶴松(林業家土倉庄三郎の長男)の依頼を受けて内モンゴルを探検、蒙古王と呼ばれるようになった。翌年の日比谷焼討事件で検挙された後、1908年(明治41年)には衆議院議員に当選した。以後、当選4回し、又新会、立憲国民党、革新倶楽部、新正倶楽部などに属し[3]、憲政擁護運動や営業税廃税運動などで活躍した。
1910年(明治43年)、白瀬矗の南極探検を支援する南極探検後援会が発足すると、幹事の一人になった[9] 。辛亥革命を支持し、1915年(大正4年)、東京の梅屋庄吉邸で開かれた孫文と宋慶齢の結婚パーティーにも参列している[10]。院外では浪人会に参加し、1918年(大正7年)には吉野作造と対決した。
人物
[編集]家族・親族
[編集]- 佐々木家
- 親戚
- 妻の兄・川島浪速(大陸浪人)
著書
[編集]- 『二千九百年前西域探検日誌』日高有倫堂、1910年(復刻版、八幡書店、2000年)。
- 『男子の意気』泰山房、1916年。
- 『ペンペン草』東京六連報社、1926年。
訳書
[編集]- スコット著『大雄弁学』二松堂書店、1916年。
脚注
[編集]- ^ a b 『衆議院要覧 下巻』289頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年3月24日閲覧。
- ^ a b c d 『議会制度七十年史 第11』207頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年4月1日閲覧。
- ^ a b c d 佐々木 安五郎とはコトバンク。2019年7月28日閲覧。
- ^ a b 『衆議院議員略歴 第1回乃至第19回』373頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年7月28日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第6版』さ32頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年7月28日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第7版』さ41 - 42頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年7月28日閲覧。
- ^ 重松、2008年
- ^ 高山國 NCID AA1220261X
- ^ 白瀬南極探検隊記念館ホームページ
- ^ ナガジン!バックナンバー 2011年 9月 特集「孫文を支えた梅屋庄吉」
参考文献
[編集]- 衆議院事務局編『衆議院要覧 下巻』衆議院事務局、1920年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員略歴 第1回乃至第19回』衆議院事務局、1936年。
- 衆議院、参議院編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年。
関連書籍
[編集]- 真継雲山『蒙古王照山敗戦録』雲山堂、1912年。
- 横山健堂『師範出身の異彩ある人物』南光社、1933年。
- 宮地正人『日露戦後政治史の研究』東京大学出版会、1973年。
- 重松正史「山口県における立憲国民党の進出」(『たたら製鉄・石見銀山と地域社会』清文堂出版、2008年)