佐倉丸 (2代)
佐倉丸 | |
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基本情報 | |
船種 | 貨物船 |
クラス | S型貨物船 |
船籍 | 大日本帝国 |
所有者 | 日本郵船 |
運用者 |
日本郵船 大日本帝国陸軍 |
建造所 | 三菱重工業長崎造船所 |
母港 | 東京港/東京都 |
姉妹船 | 6隻[1] |
信号符字 | JWWN[2] |
IMO番号 | 47026(※船舶番号)[2] |
建造期間 | 239日 |
就航期間 | 702日 |
経歴 | |
起工 | 1939年8月5日[2] |
進水 | 1939年12月13日[2] |
竣工 | 1940年3月30日[2] |
最後 | 1942年3月1日被雷沈没(バタビア沖海戦) |
要目 | |
総トン数 |
7,146トン[1][3] 7,166トン(9,246トン)[注 1][4] |
純トン数 | 3,922トン |
載貨重量 |
9,415トン[1] 9,410トン(9,901トン)[4] |
排水量 | 16,278トン(満載)[1] |
全長 | 146.20m[1] |
垂線間長 | 145.0m[1] |
型幅 | 19.00m[1] |
型深さ | 9.8m[1] |
高さ |
28.65m(水面から1番・4番マスト最上端まで) 15.24m(水面から2番・3番マスト最上端まで) 9.44m(水面から船橋最上端まで) |
満載喫水 | 8.543m[1] |
主機関 | 三菱製MB-7S M72/125型ディーゼル機関 2基[1] |
推進器 | 2軸 |
最大出力 | 10,824BHP[1] |
定格出力 | 9,600BHP[1] |
最大速力 | 19.537ノットノット(試運転)[1] |
航海速力 | 17.0ノット(満載)[1] |
航続距離 | 16.0ノットで37,000海里 |
1941年1月21日徴用。 高さは米海軍識別表[5]より(フィート表記)。 |
佐倉丸(さくらまる)は日本郵船の貨物船[6]。S型貨物船の一隻[7]。
なお、先代として1887年に英国で建造したものを日本郵船が購入した初代佐倉丸がいる。
文中、トン数表示のみの船舶は日本郵船の船舶である。
船歴
[編集]三菱重工業長崎造船所で建造され、1939年(昭和14年)8月5日に起工、同年12月13日に進水し、1940年(昭和15年)3月30日に竣工した[8]。
竣工後、「佐倉丸」は東航世界一周航路に就航した[9]。
1941年(昭和16年)1月21日に陸軍に徴傭され、6月5日にいったん解傭されたが、7月12日に再度徴傭された[10]。「佐倉丸」は防空基幹船に指定され、八八式七糎野戦高射砲6門、九八式二十粍高射機関砲8門が搭載された[11]。
「佐倉丸」は開戦劈頭、コタバルへの上陸作戦に参加する。船団は12月4日に三亜より出撃し、7日に目的地ごとに分かれた[12]。「佐倉丸」は「綾戸山丸」(三井物産船舶部、9,788トン)、「淡路山丸」(三井物産船舶部、9,794トン)とともにコタバルへ向かった[11]。3隻は佗美支隊、約5500名を乗せていた[13]。輸送船3隻は7日23時55分にコタバル沖に投錨し、上陸が開始されたが、8日3時半ごろから空襲が始まる[14]。輸送船は3隻とも被弾、「佐倉丸」には爆弾2発が命中し、3名が戦死した[15]。「淡路山丸」は炎上し航行不能となった[15]。6時30分、「佐倉丸」と「綾戸山丸」は避退を開始した[15]。翌日、船団はコタバルに戻って揚陸を再開し、同日中に完了した[16]。
「佐倉丸」は広東省虎門で応急修理を行い、宇品に戻った後、大阪鉄工所桜島工場で修理を受けた[17]。
それからジャワ攻略作戦に参加する[17]。攻略船団は2月18日にカムラン湾より出撃[18]。「佐倉丸」などは2月28日22時30分にバンタム湾に着き、3月1日0時までに泊地進入を終えて揚陸を開始したが、そのころバタビヤ沖海戦が生起し、船団に被害が発生した[19]。1時38分、「佐倉丸」の四番艙左舷に魚雷が命中[20]。さらに機関室左舷後部にも被雷し、「佐倉丸」は2時30分に横転して沈没した[20]。この時、「佐倉丸」の他に第二号掃海艇、「神州丸」(陸軍省、8,160トン)、「蓬萊丸」(大阪商船、9,206トン)、「龍野丸」(7,296トン)も被雷している[21]。この被害は海戦中に巡洋艦「最上」が発射した魚雷によるものと考えられる[22]。
姉妹船
[編集]- 崎戸丸型(S型)貨物船
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 括弧内は、竣工後に減屯甲板口が閉鎖された後のトン数。以下同様。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n 山田早苗「日本商船隊の懐古No.136」18ページ
- ^ a b c d e “なつかしい日本の汽船 佐倉丸”. 長澤文雄. 2023年10月7日閲覧。
- ^ 『創業百年の長崎造船所』558ページ
- ^ a b 『七十年史』262ページ
- ^ Sakito_Maru_class
- ^ 山田早苗「日本商船隊の懐古No.136」18ページ。『日本郵船戦時船史 上』36ページ
- ^ 『七十年史』261-262ページ
- ^ 『創業百年の長崎造船所』559ページ
- ^ 『七十年史』261ページ
- ^ 『日本郵船戦時船史 上』40ページ
- ^ a b 『日本郵船戦時船史 上』37ページ
- ^ 『比島・マレー方面海軍進攻作戦』380、393ページ。『日本郵船戦時船史 上』37ページ
- ^ 『比島・マレー方面海軍進攻作戦』395-396ページ
- ^ 『比島・マレー方面海軍進攻作戦』398-399ページ
- ^ a b c 『比島・マレー方面海軍進攻作戦』399ページ
- ^ 『比島・マレー方面海軍進攻作戦』411-413ページ。『日本郵船戦時船史 上』38ページ
- ^ a b 『日本郵船戦時船史 上』38ページ
- ^ 『蘭印攻略作戦』455ページ。『日本郵船戦時船史 上』38ページ
- ^ 『蘭印攻略作戦』489ページ。『日本郵船戦時船史 上』38-39ページ
- ^ a b 『日本郵船戦時船史 上』39ページ
- ^ 『蘭印攻略作戦』490ページ。『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』489-490ページ
- ^ 『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』486、490ページ
参考文献
[編集]- 日本郵船株式会社(編)『七十年史』日本郵船、1956年
- 防衛庁防衛研修所戦史室『蘭印攻略作戦』戦史叢書3、朝雲新聞社、1967年
- 防衛庁防衛研修所戦史室『比島・マレー方面海軍進攻作戦』戦史叢書24、朝雲新聞社、1969年
- 防衛庁防衛研修所戦史室『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』戦史叢書26、朝雲新聞社、1969年
- 山田早苗「日本商船隊の懐古No.136」船の科学 第43巻第11号(No.505)、18-19ページ
- 『日本郵船戦時船史 太平洋戦争下の社船挽歌 上』日本郵船、1971年
- 『創業百年の長崎造船所』三菱造船、1957年
外部リンク
[編集]- 1/700戦時輸送船模型集:佐倉丸 - 岩重多四郎による戦時状態の再現模型