第二号掃海艇
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艦歴 | |
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計画 | 大正9年度計画[1] |
起工 | 1922年4月13日[1] |
進水 | 1923年3月17日[1] |
竣工 | 1923年6月30日[1] |
その後 | 1942年3月1日味方魚雷により沈没[1] |
除籍 | 1945年11月30日[1] |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:600トン 公試:702トン |
全長 | 76.20m |
全幅 | 8.03m |
吃水 | 2.29m |
機関 | ロ号艦本式缶(石炭専焼)2基[2] 直立3気筒3段膨張レシプロ2基 2軸、4,000馬力 |
速力 | 20.0ノット |
航続距離 | 12ノットで2,000海里 |
燃料 | 石炭:150トン |
乗員 | 97名[3] |
兵装 | 45口径三年式12cm砲 2門 40口径三年式8cm高角砲 単装1門 九一式爆雷投射機2基 爆雷投下台6基 爆雷18個[4] 対艦式大掃海具2型 単艦式大掃海具3型、または機雷50個 |
第二号掃海艇(だいにごうそうかいてい)は、日本海軍の掃海艇。第一号型掃海艇の2番艦。
艦歴
[編集]1922年(大正11年)4月13日、三井物産造船部玉工場で起工[1]。1923年(大正12年)3月17日進水。同年6月30日に竣工。竣工時艇名は第二掃海艇[5]、掃海艇に類別。1924年(大正13年)4月24日、第二号掃海艇に改称[6]。
1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)まで日中戦争において華中の作戦に参加[1]。1937年12月28日、南京下流烏龍山水道で触雷して損傷を受けた[1]。太平洋戦争では、南方侵攻作戦に参加[1]。
バタビア沖海戦中の1942年(昭和17年)3月1日1時35分にパンジャン島南方で右舷缶室に被雷し、切断されて転覆した[7]。これは巡洋艦「最上」の雷撃によるものと考えられる[8]。海上にマストが露出していたため第四予備艦となった[1]。1945年(昭和20年)11月30日に除籍。
歴代艇長
[編集]※艦長等は『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 艤装員長
- 三塚俊男 大尉:1923年5月1日[9] -
- 艇長
- 三塚俊男 大尉:1923年6月30日[10] - 1924年5月10日[11]
- 清水他喜雄 大尉:1924年5月10日[11] - 1924年7月1日[12]
- 太原進 大尉:1924年7月1日 - 1925年12月1日[13]
- 金子豊吉 少佐:1925年12月1日 - 1926年11月1日
- 島津信夫 大尉:1926年12月1日[14] - 1928年12月10日[15]
- 八木九五 少佐:1928年12月10日[15] - 1929年11月30日[16]
- 坂野弥三郎 大尉:1929年11月30日[16] - 1932年1月25日[17]
- 近野信雄 大尉:1932年1月25日 - 1932年11月15日
- 谷口秀志 大尉:1932年11月15日[18] - 1933年5月25日[19]
- 宮崎定栄 大尉:1933年5月25日[19] - 1933年9月1日[20]
- 横井稔 大尉:1933年9月1日[20] - 1934年11月15日[21]
- 藤田浩 少佐:1934年11月15日[21] - 1935年6月1日[22]
- 田代格 大尉:1935年6月1日[22] - 1937年2月1日[23]
- 梶原正見 少佐:1937年2月1日 - 1938年2月26日[24]
- (兼)梶原正見 少佐:1938年2月26日[24] - 1938年7月28日
- 梶原正見 少佐:1938年7月28日 - 1938年8月23日
- (兼)梶原正見 少佐:1938年8月23日 - 1938年11月15日
- 松崎辰治 少佐:1938年11月15日[25] - 1939年11月15日[26]
- 吉松田守 少佐:1939年11月15日[26] - 1940年4月24日[27]
- 馬越正博 大尉:1940年4月24日[27] - 1940年11月15日[28]
- 古谷卓夫 大尉:1940年11月15日[28] - 1941年9月10日[29]
- 生永邦雄 大尉:1941年9月10日[29] -
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇「主要艦艇艦歴表」28頁。
- ^ 『昭和造船史』、『日本補助艦艇物語』による。『写真 日本の軍艦 第13巻』p226-227の表によると3基。
- ^ 『昭和造船史』、『日本補助艦艇物語』による。『写真 日本の軍艦 第13巻』p226-227の表によると91名。
- ^ 『写真 日本の軍艦 第13巻』による。一方『昭和造船史』、『日本補助艦艇物語』には爆雷の記載はない。
- ^ 「大正10年10月12日付 海軍大臣達 第190号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070079300
- ^ 「大正13年4月24日付 海軍大臣達 第49号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070083400
- ^ 『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』489ページ
- ^ 『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』486、490ページ
- ^ 『官報』第3224号、大正12年5月2日。
- ^ 『官報』第3277号、大正12年7月3日。
- ^ a b 『官報』第3513号、大正13年5月12日。
- ^ 『官報』第3557号、大正13年7月2日。
- ^ 『官報』第3982号、大正14年12月2日。
- ^ 『官報』第4283号、大正15年12月2日。
- ^ a b 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
- ^ a b 『官報』第878号、昭和4年12月2日。
- ^ 『官報』第1519号、昭和7年1月26日。
- ^ 『官報』第1765号、昭和7年11月16日。
- ^ a b 『官報』第1918号、昭和8年5月26日。
- ^ a b 『官報』第2003号、昭和8年9月2日。
- ^ a b 『官報』第2364号、昭和9年11月16日。
- ^ a b 『官報』第2523号、昭和10年6月3日。
- ^ 『官報』第3023号、昭和12年2月2日。
- ^ a b 「海軍辞令公報 号外 第142号 昭和13年2月28日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073400
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第261号 昭和13年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074600
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第402号 昭和14年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076800
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第469号 昭和15年4月24日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077900
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第555号 昭和15年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079500
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第708号 昭和16年9月10日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082000
参考文献
[編集]- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0463-6
- 日本造船学会『昭和造船史 第1巻』第3刷、原書房、1981年。ISBN 4-562-00302-2
- 福井静夫『福井静夫著作集第10巻 日本補助艦艇物語』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0658-2
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』戦史叢書26、朝雲新聞社、1969年