コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

第二号掃海艇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
艦歴
計画 大正9年度計画[1]
起工 1922年4月13日[1]
進水 1923年3月17日[1]
竣工 1923年6月30日[1]
その後 1942年3月1日味方魚雷により沈没[1]
除籍 1945年11月30日[1]
性能諸元
排水量 基準:600トン
公試:702トン
全長 76.20m
全幅 8.03m
吃水 2.29m
機関 ロ号艦本式缶(石炭専焼)2基[2]
直立3気筒3段膨張レシプロ2基
2軸、4,000馬力
速力 20.0ノット
航続距離 12ノットで2,000海里
燃料 石炭:150トン
乗員 97名[3]
兵装 45口径三年式12cm砲 2門
40口径三年式8cm高角砲 単装1門
九一式爆雷投射機2基
爆雷投下台6基
爆雷18個[4]
対艦式大掃海具2型
単艦式大掃海具3型、または機雷50個

第二号掃海艇(だいにごうそうかいてい)は、日本海軍掃海艇第一号型掃海艇の2番艦。

艦歴

[編集]

1922年大正11年)4月13日、三井物産造船部玉工場で起工[1]1923年(大正12年)3月17日進水。同年6月30日に竣工。竣工時艇名は第二掃海艇[5]、掃海艇に類別。1924年(大正13年)4月24日、第二号掃海艇に改称[6]

1937年昭和12年)から1939年(昭和14年)まで日中戦争において華中の作戦に参加[1]。1937年12月28日、南京下流烏龍山水道で触雷して損傷を受けた[1]太平洋戦争では、南方侵攻作戦に参加[1]

バタビア沖海戦中の1942年(昭和17年)3月1日1時35分にパンジャン島南方で右舷缶室に被雷し、切断されて転覆した[7]。これは巡洋艦「最上」の雷撃によるものと考えられる[8]。海上にマストが露出していたため第四予備艦となった[1]1945年(昭和20年)11月30日に除籍。

歴代艇長

[編集]

※艦長等は『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艤装員長
  • 三塚俊男 大尉:1923年5月1日[9] -
艇長
  • 三塚俊男 大尉:1923年6月30日[10] - 1924年5月10日[11]
  • 清水他喜雄 大尉:1924年5月10日[11] - 1924年7月1日[12]
  • 太原進 大尉:1924年7月1日 - 1925年12月1日[13]
  • 金子豊吉 少佐:1925年12月1日 - 1926年11月1日
  • 島津信夫 大尉:1926年12月1日[14] - 1928年12月10日[15]
  • 八木九五 少佐:1928年12月10日[15] - 1929年11月30日[16]
  • 坂野弥三郎 大尉:1929年11月30日[16] - 1932年1月25日[17]
  • 近野信雄 大尉:1932年1月25日 - 1932年11月15日
  • 谷口秀志 大尉:1932年11月15日[18] - 1933年5月25日[19]
  • 宮崎定栄 大尉:1933年5月25日[19] - 1933年9月1日[20]
  • 横井稔 大尉:1933年9月1日[20] - 1934年11月15日[21]
  • 藤田浩 少佐:1934年11月15日[21] - 1935年6月1日[22]
  • 田代格 大尉:1935年6月1日[22] - 1937年2月1日[23]
  • 梶原正見 少佐:1937年2月1日 - 1938年2月26日[24]
  • (兼)梶原正見 少佐:1938年2月26日[24] - 1938年7月28日
  • 梶原正見 少佐:1938年7月28日 - 1938年8月23日
  • (兼)梶原正見 少佐:1938年8月23日 - 1938年11月15日
  • 松崎辰治 少佐:1938年11月15日[25] - 1939年11月15日[26]
  • 吉松田守 少佐:1939年11月15日[26] - 1940年4月24日[27]
  • 馬越正博 大尉:1940年4月24日[27] - 1940年11月15日[28]
  • 古谷卓夫 大尉:1940年11月15日[28] - 1941年9月10日[29]
  • 生永邦雄 大尉:1941年9月10日[29] -

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇「主要艦艇艦歴表」28頁。
  2. ^ 『昭和造船史』、『日本補助艦艇物語』による。『写真 日本の軍艦 第13巻』p226-227の表によると3基。
  3. ^ 『昭和造船史』、『日本補助艦艇物語』による。『写真 日本の軍艦 第13巻』p226-227の表によると91名。
  4. ^ 『写真 日本の軍艦 第13巻』による。一方『昭和造船史』、『日本補助艦艇物語』には爆雷の記載はない。
  5. ^ 大正10年10月12日付 海軍大臣達 第190号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070079300 
  6. ^ 大正13年4月24日付 海軍大臣達 第49号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070083400 
  7. ^ 『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』489ページ
  8. ^ 『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』486、490ページ
  9. ^ 『官報』第3224号、大正12年5月2日。
  10. ^ 『官報』第3277号、大正12年7月3日。
  11. ^ a b 『官報』第3513号、大正13年5月12日。
  12. ^ 『官報』第3557号、大正13年7月2日。
  13. ^ 『官報』第3982号、大正14年12月2日。
  14. ^ 『官報』第4283号、大正15年12月2日。
  15. ^ a b 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
  16. ^ a b 『官報』第878号、昭和4年12月2日。
  17. ^ 『官報』第1519号、昭和7年1月26日。
  18. ^ 『官報』第1765号、昭和7年11月16日。
  19. ^ a b 『官報』第1918号、昭和8年5月26日。
  20. ^ a b 『官報』第2003号、昭和8年9月2日。
  21. ^ a b 『官報』第2364号、昭和9年11月16日。
  22. ^ a b 『官報』第2523号、昭和10年6月3日。
  23. ^ 『官報』第3023号、昭和12年2月2日。
  24. ^ a b 海軍辞令公報 号外 第142号 昭和13年2月28日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073400 
  25. ^ 海軍辞令公報(部内限)号外 第261号 昭和13年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074600 
  26. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第402号 昭和14年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076800 
  27. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第469号 昭和15年4月24日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077900 
  28. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第555号 昭和15年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079500 
  29. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第708号 昭和16年9月10日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082000 

参考文献

[編集]
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0463-6
  • 日本造船学会『昭和造船史 第1巻』第3刷、原書房、1981年。ISBN 4-562-00302-2
  • 福井静夫『福井静夫著作集第10巻 日本補助艦艇物語』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0658-2
  • 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』戦史叢書26、朝雲新聞社、1969年