第十五号掃海艇
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艦歴 | |
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計画 | 昭和6年度計画[1] |
起工 | 1933年4月6日[1] |
進水 | 1934年2月14日[1] |
竣工 | 1934年8月21日[1] |
その後 | 1945年3月5日雷撃により擱座[1] |
除籍 | 1945年5月10日[1] |
性能諸元(竣工時→性能改善工事後) | |
排水量 | 基準:525トン → 691トン 公試:590トン → 800トン |
全長 | 74.00m |
全幅 | 8.20m |
吃水 | 2.07m → 3.13m |
機関 | ロ号艦本式缶(混焼)2基 3気筒3段膨張レシプロ2基 2軸、3,200馬力 |
速力 | 20.0ノット → 19ノット |
航続距離 | 12ノットで2,600海里 |
燃料 | 重油:25トン 石炭:53トン |
乗員 | 98名 |
兵装 | 45口径三年式12cm砲 2門 40口径三年式8cm高角砲 単装1門 九一式爆雷投射機2基 爆雷36個(もしくは16個[2]) 掃海具、または五号機雷40個、または八九式機雷26個 |
第十五号掃海艇(だいじゅうごごうそうかいてい)は、日本海軍の掃海艇。第十三号型掃海艇の3番艦。
艦歴
[編集]1933年(昭和8年)4月6日、藤永田造船所で起工[1]。1934年(昭和9年)2月14日進水。同年8月21日に竣工。第十五号掃海艇と命名され、掃海艇に類別。
1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)まで日中戦争において華中及び華北の作戦に参加[1]。太平洋戦争では、南方侵攻作戦、船団護衛に従事[1]。1945年(昭和20年)3月5日、那覇から鹿児島へ向かう船団の護衛中、南西諸島北方でアメリカ海軍潜水艦「タイルフィッシュ」の雷撃を受け諏訪之瀬島西岸に擱座した[1]。同年5月10日に除籍。
歴代艇長
[編集]※艦長等は『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 艤装員長
- 原田耕作 大尉:1934年4月1日[3] -
- 艇長
- 原田耕作 大尉:1934年8月31日[4] - 1934年11月15日[5]
- 北野亘 大尉:1934年11月15日[5] - 1936年12月1日[6]
- 池田暎 少佐:1936年12月1日 - 1938年4月6日[7]
- 高島鉄郎 少佐:1938年4月6日[8] - 1938年12月15日[9]
- 古浜智 大尉:1938年12月15日[9] - 1940年10月15日[10]
- 古要桂次 大尉:1940年10月15日[11] - 1941年4月10日[12]
- 佐藤長四郎 予備大尉:1941年4月10日[12] -
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇「主要艦艇艦歴表」28頁。
- ^ 『昭和造船史』、『日本補助艦艇物語』によると第13号、第14号は爆雷18個、第15号、第16号が爆雷36個。一方『写真 日本の軍艦 第13巻』p226-227の表によると4隻とも爆雷36個。
- ^ 『官報』第2173号、昭和9年4月2日。
- ^ 『官報』第2302号、昭和9年9月1日。
- ^ a b 『官報』第2364号、昭和9年11月16日。
- ^ 『官報』第2976号、昭和11年12月2日。
- ^ 『日本海軍史』第9巻、645頁。
- ^ 「昭和13年 海軍辞令公報 完(部内限)4月」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073700
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第543号 昭和15年10月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第543号 昭和15年10月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079100
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第614号 昭和16年4月10日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072080700
参考文献
[編集]- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0463-6
- 日本造船学会『昭和造船史 第1巻』第3刷、原書房、1981年。ISBN 4-562-00302-2
- 福井静夫『福井静夫著作集第10巻 日本補助艦艇物語』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0658-2
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。