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第八号掃海艇 (3代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
艦歴
計画 昭和12年度計画[1]③計画
起工 1937年12月11日[1]
進水 1938年5月28日[1]
竣工 1939年2月15日[1]
その後 1946年7月10日英海軍により海没処分[1]
除籍 1946年8月10日[1]
性能諸元(竣工時)
排水量 基準:630t
公試:738t
全長 72.5m
水線長 71.3m
全幅 7.85m
吃水 2.60m
主缶 ロ号艦本式罐・石炭重油混焼 2基
機関 艦本式オールギヤードタービン 2基 2軸推進 3,850
燃料 石炭 118t 重油 48t
速力 20kt
航続距離 14ktで2,000海里
乗員 103名
兵装 45口径三年式12cm単装砲 3基
25mm連装機銃 1基
爆雷 36個
掃海具

第八号掃海艇(だいはちごうそうかいてい)は、日本海軍掃海艇第七号型掃海艇 (3代)の2番艇。

艦歴

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1937年昭和12年)12月11日、浦賀船渠で起工[1]1938年(昭和13年)4月15日、掃海艇に類別[2]。同年5月28日進水。1939年(昭和14年)2月15日に竣工。佐世保鎮守府籍に編入[3]

1939年から1940年(昭和15年)にかけて、日中戦争において華南の作戦に参加[1]

1941年(昭和16年)6月1日、第三艦隊第一根拠地隊に編入。同年12月8日、太平洋戦争に参加し、比島レガスビー攻略作戦に参加[3]。以後、メナド、ケンダリー、アンボン、マカッサル、クーパンの各攻略参戦で船団護衛に従事[3]

1942年(昭和17年)3月10日、第二南遣艦隊第二十一特別根拠地隊に編入[3]。同年7月25日、西部ニューギニア攻略参戦に参加[3]。その後、トラックパラオ方面での船団護衛、スラバヤ方面の掃海に従事[3]

1944年(昭和19年)8月25日から同年9月21日まで、スラバヤで入渠して整備を実施[3]。その後、スラバヤ、アンボン、マカッサル、ボルネオ北東岸なとで船団護衛に従事した[3]

終戦をスラバヤで迎え、1946年(昭和21年)7月10日、シンガポールケッペル湾外でイギリス海軍により海没処分[1][4]。同年6月10日に除籍。

歴代艇長

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艤装員長
  • (兼)北野亘 少佐:不詳 - 1938年11月15日[5]
  • 関戸靖彦 少佐:1938年11月15日[5] -
艇長
  • 関戸靖彦 少佐:1939年2月15日[6] - 1940年4月1日[7]
  • 川橋秋文 少佐:1940年4月1日[7] - 1940年11月15日[8]
  • 東恒次 予備大尉:1940年11月15日[9] - 1941年5月9日[10]
  • 川島信 予備大尉:1941年5月9日[10] -

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇「主要艦艇艦歴表」28頁。
  2. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) 100頁。◎昭和十三年四月十五日(内令三〇七) 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス |〔中略〕掃海艇第一號型ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ|第七號型|第七號、第八號|
  3. ^ a b c d e f g h 写真 日本の軍艦 第13巻』212頁。
  4. ^ 『日本の軍艦 第13巻』212頁では「7月11日」。
  5. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)号外 第261号 昭和13年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074600 
  6. ^ 海軍辞令公報(部内限)第301号 昭和14年2月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075400 
  7. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第459号 昭和15年4月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077900 
  8. ^ 海軍辞令公報(部内限)第555号 昭和15年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079500 
  9. ^ 海軍辞令公報(部内限)第555号 昭和15年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079700 
  10. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第634号 昭和16年5月10日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081000 

参考文献

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