第八号掃海艇 (3代)
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艦歴 | |
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計画 | 昭和12年度計画[1](③計画) |
起工 | 1937年12月11日[1] |
進水 | 1938年5月28日[1] |
竣工 | 1939年2月15日[1] |
その後 | 1946年7月10日英海軍により海没処分[1] |
除籍 | 1946年8月10日[1] |
性能諸元(竣工時) | |
排水量 | 基準:630t 公試:738t |
全長 | 72.5m |
水線長 | 71.3m |
全幅 | 7.85m |
吃水 | 2.60m |
主缶 | ロ号艦本式罐・石炭重油混焼 2基 |
機関 | 艦本式オールギヤードタービン 2基 2軸推進 3,850㏋ |
燃料 | 石炭 118t 重油 48t |
速力 | 20kt |
航続距離 | 14ktで2,000海里 |
乗員 | 103名 |
兵装 | 45口径三年式12cm単装砲 3基 25mm連装機銃 1基 爆雷 36個 掃海具 |
第八号掃海艇(だいはちごうそうかいてい)は、日本海軍の掃海艇。第七号型掃海艇 (3代)の2番艇。
艦歴
[編集]1937年(昭和12年)12月11日、浦賀船渠で起工[1]。1938年(昭和13年)4月15日、掃海艇に類別[2]。同年5月28日進水。1939年(昭和14年)2月15日に竣工。佐世保鎮守府籍に編入[3]。
1939年から1940年(昭和15年)にかけて、日中戦争において華南の作戦に参加[1]。
1941年(昭和16年)6月1日、第三艦隊第一根拠地隊に編入。同年12月8日、太平洋戦争に参加し、比島レガスビー攻略作戦に参加[3]。以後、メナド、ケンダリー、アンボン、マカッサル、クーパンの各攻略参戦で船団護衛に従事[3]。
1942年(昭和17年)3月10日、第二南遣艦隊第二十一特別根拠地隊に編入[3]。同年7月25日、西部ニューギニア攻略参戦に参加[3]。その後、トラック、パラオ方面での船団護衛、スラバヤ方面の掃海に従事[3]。
1944年(昭和19年)8月25日から同年9月21日まで、スラバヤで入渠して整備を実施[3]。その後、スラバヤ、アンボン、マカッサル、ボルネオ北東岸なとで船団護衛に従事した[3]。
終戦をスラバヤで迎え、1946年(昭和21年)7月10日、シンガポールケッペル湾外でイギリス海軍により海没処分[1][4]。同年6月10日に除籍。
歴代艇長
[編集]- 艤装員長
- 艇長
- 関戸靖彦 少佐:1939年2月15日[6] - 1940年4月1日[7]
- 川橋秋文 少佐:1940年4月1日[7] - 1940年11月15日[8]
- 東恒次 予備大尉:1940年11月15日[9] - 1941年5月9日[10]
- 川島信 予備大尉:1941年5月9日[10] -
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇「主要艦艇艦歴表」28頁。
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) 100頁。◎昭和十三年四月十五日(内令三〇七) 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス |〔中略〕掃海艇第一號型ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ|第七號型|第七號、第八號|
- ^ a b c d e f g h 『写真 日本の軍艦 第13巻』212頁。
- ^ 『日本の軍艦 第13巻』212頁では「7月11日」。
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第261号 昭和13年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074600
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第301号 昭和14年2月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075400
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第459号 昭和15年4月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077900
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第555号 昭和15年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079500
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第555号 昭和15年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079700
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第634号 昭和16年5月10日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081000
参考文献
[編集]- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』海軍大臣官房、1940年。
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0463-6
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。