第十八号掃海艇
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艦歴 | |
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計画 | 昭和6年度計画[1] |
起工 | 1935年2月20日[1] |
進水 | 1935年9月19日[1] |
竣工 | 1936年4月30日[1] |
その後 | 1944年11月26日空襲により沈没[1] |
除籍 | 1945年1月10日[1] |
性能諸元(竣工時) | |
排水量 | 基準:578トン 公試:700トン |
全長 | 72.50m |
全幅 | 7.85m |
吃水 | 4.55m |
機関 | ロ号艦本式缶(混焼)2基 艦本式タービン2基 2軸、3,200馬力 |
速力 | 19.0ノット |
航続距離 | 12ノットで2,600海里 |
燃料 | 重油:47トン 石炭:110トン |
乗員 | 94名 |
兵装 | 45口径三年式12cm砲 2門 13mm機銃 連装2基 九四式爆雷投射機1基 爆雷36個 掃海具 |
第十八号掃海艇(だいじゅうはちごうそうかいてい)は、日本海軍の掃海艇。第十七号型掃海艇の2番艦。
艦歴
[編集]1935年(昭和10年)2月20日、三井物産造船部玉工場で起工[1]。同年9月19日進水。1936年(昭和11年)4月30日に竣工。第十八号掃海艇と命名され、掃海艇に類別。
1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)まで日中戦争において華中及び華北の作戦に参加[1]。太平洋戦争では、南方侵攻作戦、船団護衛に従事[1]。
1944年(昭和19年)11月26日、海南島西角南方75海里付近でアメリカ陸軍機の攻撃を受けて沈没[1]。1945年(昭和20年)1月10日に除籍。
歴代艇長
[編集]- 艤装員長
- 中杉清治 大尉:1935年10月15日[2] -
- 艇長
- 中杉清治 少佐:1936年4月30日[3] - 1936年12月1日[4]
- 若林一雄 少佐:1936年12月1日[4] - 1938年12月1日[5]
- 東日出夫 少佐:1938年12月1日[5] - 1939年11月15日[6]
- 高塚実 大尉:1939年11月15日[6] - 1940年11月15日[7]
- 渋谷隆 大尉:1940年11月15日[7] - 1941年5月15日[8]
- 河原政頼 予備大尉:1941年5月15日[8] -
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇「主要艦艇艦歴表」28頁。
- ^ 『官報』第2638号、昭和10年10月16日。
- ^ 『官報』第2797号、昭和11年5月2日。
- ^ a b 『官報』第2976号、昭和11年12月2日。
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第267号 昭和13年12月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074700
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第402号 昭和14年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076800
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第555号 昭和15年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079500
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第638号 昭和16年5月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081000
参考文献
[編集]- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0463-6
- 日本造船学会『昭和造船史 第1巻』第3刷、原書房、1981年。ISBN 4-562-00302-2
- 福井静夫『福井静夫著作集第10巻 日本補助艦艇物語』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0658-2
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料篇、KKベストセラーズ、1994年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。