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第十八号掃海艇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
艦歴
計画 昭和6年度計画[1]
起工 1935年2月20日[1]
進水 1935年9月19日[1]
竣工 1936年4月30日[1]
その後 1944年11月26日空襲により沈没[1]
除籍 1945年1月10日[1]
性能諸元(竣工時)
排水量 基準:578トン
公試:700トン
全長 72.50m
全幅 7.85m
吃水 4.55m
機関 ロ号艦本式缶(混焼)2基
艦本式タービン2基
2軸、3,200馬力
速力 19.0ノット
航続距離 12ノットで2,600海里
燃料 重油:47トン
石炭:110トン
乗員 94名
兵装 45口径三年式12cm砲 2門
13mm機銃 連装2基
九四式爆雷投射機1基
爆雷36個
掃海具

第十八号掃海艇(だいじゅうはちごうそうかいてい)は、日本海軍掃海艇第十七号型掃海艇の2番艦。

艦歴

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1935年昭和10年)2月20日、三井物産造船部玉工場で起工[1]。同年9月19日進水。1936年(昭和11年)4月30日に竣工。第十八号掃海艇と命名され、掃海艇に類別。

1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)まで日中戦争において華中及び華北の作戦に参加[1]太平洋戦争では、南方侵攻作戦、船団護衛に従事[1]

1944年(昭和19年)11月26日、海南島西角南方75海里付近でアメリカ陸軍機の攻撃を受けて沈没[1]1945年(昭和20年)1月10日に除籍。

歴代艇長

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艤装員長
  • 中杉清治 大尉:1935年10月15日[2] -
艇長
  • 中杉清治 少佐:1936年4月30日[3] - 1936年12月1日[4]
  • 若林一雄 少佐:1936年12月1日[4] - 1938年12月1日[5]
  • 東日出夫 少佐:1938年12月1日[5] - 1939年11月15日[6]
  • 高塚実 大尉:1939年11月15日[6] - 1940年11月15日[7]
  • 渋谷隆 大尉:1940年11月15日[7] - 1941年5月15日[8]
  • 河原政頼 予備大尉:1941年5月15日[8] -

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇「主要艦艇艦歴表」28頁。
  2. ^ 『官報』第2638号、昭和10年10月16日。
  3. ^ 『官報』第2797号、昭和11年5月2日。
  4. ^ a b 『官報』第2976号、昭和11年12月2日。
  5. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)号外 第267号 昭和13年12月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074700 
  6. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第402号 昭和14年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076800 
  7. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第555号 昭和15年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079500 
  8. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第638号 昭和16年5月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081000 

参考文献

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  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0463-6
  • 日本造船学会『昭和造船史 第1巻』第3刷、原書房、1981年。ISBN 4-562-00302-2
  • 福井静夫『福井静夫著作集第10巻 日本補助艦艇物語』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0658-2
  • 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料篇、KKベストセラーズ、1994年。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。