佐藤雄能
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佐藤 雄能(さとう ゆうのう、慶応元年5月3日(1865年5月27日) - 昭和14年(1939年)10月30日)は、山形県東田川郡(現・鶴岡市)出身の、日本の教育者。鉄道省事務官。幼名は雄之助。
経歴
[編集]- 1865年(慶応元年)5月27日 - 庄内藩士・辻新右衛門の4男として鶴岡に生まれる。
- 1884年(明治17年) - 神職・佐藤正孝の養嗣子となる。
- 1886年(明治19年) - 山形県師範学校を卒業し天童小学校訓導となる。
- 1888年(明治21年) - 上京し東京専門学校(現・早稲田大学)行政科に入学する。
- 1890年(明治23年) - 同校を卒業する。
- 1892年(明治25年) - 山添小学校に勤務する。
- 1894年(明治27年) - 鶴岡・酒田間の鉄道布設計画の実地調査に従事する。
- 1896年(明治29年) - 有志の資金援助を得て東京に荘内館(現・財団法人やまがた育英会・駒込学生会館)を設立する。
- 以後、東京鉱山監督署、農商務省特許局、逓信省鉄道局、鉄道省に務める。
- 1933年(昭和8年) - 鉄道省事務官を退官する。日本通運(株)の監事となる。
- 1939年(昭和14年) - 日本通運(株)の監事を退任する。
- 10月30日、死去する。享年75。
栄典
[編集]- 位階
- 1917年(大正6年)5月30日 - 従七位[1]
- 1922年(大正11年)1月30日 - 正七位[2]
- 1924年(大正13年)10月15日 - 従六位[3]
- 1927年(昭和2年)7月1日 - 正六位[4]
- 1932年(昭和7年)2月15日 - 従五位[5]
- 1933年(昭和8年)4月6日 - 正五位[6]
- 勲章等
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[7]
- 1917年(大正6年)6月26日 - 勲八等瑞宝章[8]
- 1920年(大正9年)2月28日 - 勲七等瑞宝章[9]
- 1922年(大正11年)2月23日 - 勲六等瑞宝章[10]
- 1927年(昭和2年)8月19日 - 勲五等瑞宝章[11]
著書
[編集]- 1917年(大正6年) - 『鉄道会計』 同文館
- 1918年(大正7年) - 『株式会社会計』 同文館
- 1922年(大正11年) - 『実用鉄道会計』 同文館
- 1925年(大正14年) - 『株式会社』 岩波書店
- 1929年(昭和4年) - 『鉄道経営の理論と実際』 同文館
- 1937年(昭和12年) - 『鉄道会計研究』 森山書店
- 1943年(昭和18年) - 『鉄道評価の諸問題』 春秋社
家族親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 『官報』第1448号「叙任及辞令」1917年5月31日。
- ^ 『官報』第2848号「叙任及辞令」p28中段 1922年2月1日。
- ^ 『官報』第3647号「叙任及辞令」p436最上段 1924年10月18日。
- ^ 『官報』第220号「叙任及辞令」p545最下段 1927年9月20日。
- ^ 『官報』第1547号「叙任及辞令」p710最上段 1932年2月29日。
- ^ 『官報』第1879号「叙任及辞令」1933年4月8日。
- ^ 『官報』第1331号・付録「辞令」p1三段目 1917年1月12日。
- ^ 『官報』第1471号「叙任及辞令」p598下段 1917年6月27日。
- ^ 『官報』第2270号「叙任及辞令」p12下段 1920年3月1日。
- ^ 『官報』第2867号「叙任及辞令」p558下段 1922年2月4日。
- ^ 『官報』第197号「叙任及辞令」p630二段目 1927年8月24日。
参考資料
[編集]- 『庄内人名辞典』 編纂・出版:庄内人名辞典刊行会