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候文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

候文(そうろうぶん)は、日本の中世から近代、昭和前期にかけて用いられた、日本語文語の一型式である。文末に丁寧の補助動詞「候」(そうろう、そろ、歴史的仮名遣いではサウラフ)を置く。

歴史

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「候」(古くはサモラフ、サブラフなど)は、元来、貴人の傍に仕える意の動詞であったが(「さむらい」もこれに由来)、平安時代に「居り」の謙譲語、さらに丁寧を表す助動詞に転じた。平安末期には現代語の「ですます体」のように口語で盛んに用いられたらしい(『平家物語』の語りの部分に多くの用例がある)。

鎌倉時代には文章としても書簡などに用いられ、文語文体として確立した。室町時代には謡曲)の語りの文体としても用いられた。この頃には、口語としては廃れたとされる(ただし「です」は「にて御座在り参らす」に由来するとされる)。 対照的に、文語としてはさらに普及し、江戸時代には、公文書・実用文などのほとんどをこの文体が占めた。

文書の種類

  1. 幕政関係・藩政関係の公的文書
  2. 農村・漁村・都市関係文書
  3. 産業・交通・商業・貿易関係文書

以上のような、ほとんどあらゆる分野にわたって、下達・上申・互通[1]の関係にある文書が、「候文」の形で存在する[2]

江戸期の「候文」の特徴は、使われる文字と文体である。何らかの目的を持って、相手に自分の意志を伝えるために書かれたものが多い(たとえば書簡の文など)[3]。使われる文字は、漢字の行草書・異体字・変体仮名・行草書の漢文の助辞・ひらがなカタカナ合字など(「くずし字」参照)。

さらに、明治時代より昭和前期にかけても、私的な書簡[4]や外交文書[5]など、信書には候文がひろく用いられた。しかし戦後の国語改革により、文語文が日常使用されることはなくなり、候文が使われることもなくなった。

現在でも企業の使う一部文書においては、かつてビジネスの公式文体であった候文由来の表現である「致し度」や「為念」など、候文の名残を見ることができる。

一円紙幣の画像
明治時代の一円紙幣。中央の「壹圓」の文字の下に、縦書きで「此券引かへに銀貨壱圓相渡可申候也」(この券引きかえに銀貨壱円あい渡すべく申しそうろうなり)とある。

特徴

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文体の特徴は、日本語の語順で語彙が並ぶ文章に、漢文に由来する定型の「返し読み」を混ぜて書かれたことである。文末に「候」を使うので「候文」の名がある。濁点句読点はない。

返読文字の例:助動詞では、如(ごとし)、不(ず)、為(す・さす・たり)、令(しむ)、可(べし)、被(る・らる)など。動詞、助詞、その他もある。

戦後の国語改革ですべて「ひらがな」で表記することになった、接続詞副詞代名詞・助動詞などの多くが、漢字またはその略体(「候」を点・簡略記号ですませる)で表記される。

  • 接続詞 「あるいは」(或者)、「しかれば」(然者)、「なおまた」(尚又)、「もっとも」(尤)、「または」(又者)など
  • 副詞 「いささか」(聊)、「いまもって」(今以)、「いよいよ」(弥)、「かねて」(兼而)、「もし」(若)、「しかのみならず」(加之)、「おそれながら」(乍恐)、「もとより」(固より)など
  • 代名詞 「この」(此)、「これ」(之・是)、「その」(其)、「それ」(夫)など
  • 助動詞 「そうろう」(候)、「なり」(也)、如(ごとし)、不(ず)、為(す・さす・たり)、令(しむ)、可(べし)、被(る・らる)、度(たし)など[6]
  • 接頭語 「あい」(相)
  • 補助動詞 「いたし」(致)、「ほうじ」(奉)、「し」(仕)、「もうし」(申)、「いり」(入)、「いたしおり」(致居)
  • 接続詞 「よう」(様)、「ところ」(所)、「おもむき」(趣)、「ゆえ」(故)、「ども」(共)、「につき」(に付)
  • その他 「~にぞんじそうろう」(~に存候)、「~にそうろう」(~に候)、「これあり」(有之)、「これなし」(無之)、「ござそうろう」(御座候)、「ござなくそうろう」(無御座候)

「送り仮名・助詞に該当する部分」に変体仮名(漢字行草書含む)・平仮名・片仮名・合字、さらには行草書の漢文助辞が使われるが、公式文書に近いほど、仮名部分がなく、漢文調である。さらには書き手や文書の性質によって、漢字と仮名などの使い方はまちまちである。また女性手紙に仮名使用が多いのはもちろんだが、男性でも、私的文書・内輪向けの文書は、仮名が多い傾向が認められる[7]

行政司法などの公式文書以外に、書状・商用文・記録・日記・証文・関所手形・宗門手形・共同生活に関わる文書に至るまで、かなりの文献がこの「候文」様式である。普段使っている話し言葉に関係なく、書く文章に使われた文語文は、方言による意思疎通の困難を克服するという意味では、非常に便利に使われた全国的様式だった[8]

文例

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  • 村々廻状

以下の文は、幕末皇女和宮親子内親王降嫁の際の村々廻状である[9]

和宮様御下向之説宿繼人馬多入間左之村々中山道浦和宿江當分助郷申付候条問屋方相觸次第人馬 遅參不致無滯差出し相勤可申候尤當時年季休役御用ニ限り是又相勤可申者也 右村々 文久元年(1861年)

(書き下し文) 和宮様御下向之説、宿継人馬多く入る間、左の村々中山道浦和宿へ当分助郷申し付け候条、問屋方より相触れ次第、人馬遅参致さず滞りなく差し出し相勤め申すべく候、もっとも当時年季休役、御用に限り、これまた相勤め申すべきものなり。

  • 法令・慶応三年第十三

これは、王政復古の大号令に関する法令・慶応三年第十三(慶応三年十二月九日発布)の後半の一部抜粋である[10]。(当時の法令は、候文により表記された。)

一 舊弊(きゅうへい)御一洗に付、言語の道 被洞開候間(どうかいせられそうろうあいだ)、見込有之(これある)向は不拘貴賤(きせんにかかわらず)、無忌憚可致獻言(きたんなくけんげんいたすべく)、且人才登庸第一之御急務に候故、心當之仁有之候者(こころあたりのじんこれありそうらわば)、早々可有言上(ごんじょうあるべく)候事

  • 現代語訳:「旧弊一新につき言論の道が広く開かれることとなりましたので考えがある者は身分にかかわらず忌憚なく上申なさい。また、人材登用が急務ですので心当たりの人物がいましたら早々に推薦なさい」

脚注

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  1. ^ 浅井潤子編『暮らしの中の古文書』吉川弘文館
  2. ^ 荒井英次編『近世の古文書』小宮山書店、昭和44年
  3. ^ 候文を使用した書簡の例として例えば『芭蕉書簡集』萩原恭男 校注、岩波書店(岩波文庫)1976年がある。
  4. ^ 野村泰治『作法・文範・現代作文大辞典』金竜堂書店、1934年(昭和9年)、2頁,ここで著者は、書簡文は、候文でも、口語体でもいずれも差し支えないと述べて、多くの候文の文例を記載している。
  5. ^ 社団法人・同盟通信社『時事年鑑・昭和14年版』1938年(昭和13年),189~190頁,これらの頁には、「ロンドン海軍条約による主力艦及巡洋艦の建艦制限の遵守の保障に関する英国大使・対日通告文」および、それに対する「帝国政府・回答文」がいずれも「候文」で書かれている。
  6. ^ 林英夫監修『おさらい古文書の基礎・文例と語彙』柏書房
  7. ^ 日本歴史学会編『演習古文書選』吉川弘文館
  8. ^ 「方言と候文」に関しては五十嵐力他監修『手紙講座第1巻』平凡社、昭和10年より。言文一致運動から来た口語体に対して、昔の「候文」の由来を懐古する文である。 「江戸時代の自由交通厳禁のために、地形上すでにあまたの方言があったところへさらに拍車がかかり、他藩人相互間では南蛮鴃舌(なんばんげきぜつ)としか聞こえない方言が多くなった。その結果他藩の人士との談話がほとんど不通になり、江戸詰めの際などにはどうにもならないという結果になった。そこで当時士人の間に流行していた謡曲(鎌倉時代の文)詞章や、全国的に普及していた往来物などの口調を借りて用を足したことから、発生し、慣用し来たったものが、候文体である。戊辰の役に、薩摩人が会津城を攻めた時、道案内にと呼び出した神官との間に、どうしても話が通じない。思案の末、謡曲のことを思い出し、シテとワキとの掛け合いよろしく問答を進め、やっとうまく行ったという逸話がある(後の西南戦争の有名人、桐野利秋の話だそうだ)。」(南蛮鴃舌=外国人が口にするモズの鳴き声のようなもの、程度の意。外国語を罵って言ったもの)
  9. ^ 吉田豊編『大奥激震録』柏書房
  10. ^ 書下し文の出典。板垣退助監修『自由党史(上)』遠山茂樹、佐藤誠朗 校訂、岩波書店(岩波文庫)1992年、37頁。原文は「近代デジタルライブラリー法令全書慶応3年」で検索。2012年8月23日閲覧。(10/383頁)。

関連項目

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外部リンク

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