倹飩
倹飩(けんどん)あるいは 倹飩式(けんどんしき)とは、家具・建築において、戸や蓋をはめ込む方法の一種[1][2]。 上下に溝を掘り、戸や蓋を上げ落としにしてはめこむのが基本的な構造である[1][2]が、左右に溝を掘るものもある[1]。慳貪とも書く[1]。
解説
[編集]典型的なものとしては、うどんやそばの出前に使う箱「岡持ち」の戸がある[1]。書院造の地袋の「戸ふすま」も「けんどん」になっていることがある。関連して「やり送り」とか「いってこい」と呼ばれるはめ込み方もあるが、こちらは上下の動きではなく左右の動きとなる。本来、上下は「けんどん」と左右は「いってこい」の違いがあるが「やり送り」はどちらにも使われたり、これらが混同されていることもある。
けんどん箱
[編集]出前用の岡持ちのうち、戸が溝にはめ込まれている種類のものを「けんどん箱」(漢字では慳貪箱・倹飩箱などの表記がある)ともいう[3]。家具・建具の「けんどん」は、「けんどん箱」の戸の構造から転じたとされるが[3]、以下のように異説もある。
江戸時代後期の文政7年(1824年)、山崎美成・曲亭馬琴らが関わっていた好事家の集まり「耽奇会」に「大名けんどん」(装飾を施した豪華なけんどん箱)という道具が出品された。この「けんどん(箱)」の名称の由来をめぐって美成と馬琴が論争し(つまり、この時点では「けんどん」の由来が不明になっていた[4])、激しい応酬の末に2人は絶交するに至った。この論争は「けんどん争い」として知られる。
美成は、かつて「けんどん屋」と呼ばれる接客の簡易な(「つっけんどん」な)形態の外食店が存在し(論争時点では名称が廃れていた)、そこから盛り切り蕎麦を「けんどんそば」と呼ぶようになり、「けんどんそば」を運搬する箱を「けんどん箱」と呼ぶようになったと主張した[4]。この説が「けんどん箱」「けんどんそば」「けんどん屋」について現代では優勢な説明である[4]。一方馬琴は、箱のほうを「けんどん」と称したのが先であると主張した[4]。「けんどん争い」と呼ばれるこの論争は[5]、「蕎麦食の歴史」や「出前の発祥」、「けんどん屋の業態」や「どんぶり鉢の名称の起源」(けんどん屋で使う器を呼ぶ「けんどん振り(鉢)」が転じて「どんぶり(鉢)」になったという説がある)などとも関連することから、江戸時代の食文化に関する貴重な記録となっている。