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全日本自動車競走選手権大会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本自動車競走大会 > 全日本自動車競走選手権大会
全日本自動車競走選手権大会
(第9回日本自動車競走大会)
開催概要
優勝の記念撮影を行うアート商会の榊原郁三本田宗一郎、榊原真一(中央左から)
主催 日本自動車競走倶楽部 (NARC)
後援 報知新聞社[1]
開催日 1934年10月13日(土)
1934年10月14日(日)
開催地 大日本帝国の旗 大日本帝国
東京府東京市京橋区 月島4号地
コース形式 仮設オーバルトラック非舗装
コース長 1マイル(約1.6 km)[2][3]
レース距離 10マイル(10月13日決勝レース)
15マイル(10月14日決勝レース)
天候 晴れ(10月13日)[2][4]
晴れ(10月14日)[5]
観客数 2万人超(10月14日)[5]
入場料
[注釈 1]
スタンド席・特等券1円50銭、一等券1円[6][7]
大衆席・50銭[6]
決勝レース結果(1日目)
優勝 榊原真一(アート・カーチス)
2位 三津石六郎(フォード)
決勝レース結果(2日目)
優勝 榊原真一(アート・カーチス)
2位 木村安治(ブガッティ)
3位 西村(シボレー)

1934年昭和9年)10月の全日本自動車競走選手権大会[注釈 2]は、日本東京市月島4号地において開催された四輪自動車レースである。日本自動車競走大会の第9回大会にあたると考えられていると同時に[8][9][10]全日本自動車競走大会の第1回大会とみなす説もある[11][注釈 3]

主なトピック

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9年ぶりの開催と興行の成功

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前回から9年ぶりで、1934年(昭和9年)10月に開催された。満洲事変(1931年)により、陸軍の機械化国防意識が高まっていた時期であり[9]、軍部の後押しの下、開催が実現した。

この大会は参加者が前回大会から倍増して活気のあるものとなり、外国車もほぼ米国車のみだった前回までと異なり、アルヴィスブガッティといった欧州車も参戦して華やかな大会となった[9]。加えて、報知新聞社による事前の大々的な宣伝や、JOAK(NHKラジオ第1放送)による全国ラジオ放送中継なども奏功し、日本における自動車レースとして初めて、興行として成功を収めた[9][12]

このレースの成功により新しいレーストラックを求める機運が高まり、東京郊外に常設サーキットの多摩川スピードウェイが設立されるきっかけとなり、1935年(昭和10年)から建設が始まった[9][12]

大会名称

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日本自動車競走大会ではこの大会で初めて「全日本選手権」(All-Japan championships[13])の名が用いられ、後援者の『報知新聞』も宣伝において全国規模の開催であることを強調した[14]

また、この大会を「第1回」として、次の多摩川スピードウェイで開催された1936年(昭和11年)6月の大会を「第2回全日本自動車競走大会」と呼ぶこともある[15][11]

実況生中継

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JOAK(NHKラジオ第1放送)により実況生中継が行われ、全国放送された。放送は2日目の12時50分から13時50分にかけて行われ、飛行機と自動車の競争、会長杯競走、報知杯競走の模様が放送された[4][16] 。実況は山本アナウンサーによって行われた[14][5]

会場

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開催地は「月島埋立地」としばしば記載されているが、正確には「月島4号地」のことで、後の地名では月島ではなく晴海にあたる[9]

土地は28万坪あり、開催前に連日に渡って100名以上の人夫によって除草と地ならしが行われた[6]、開催前日(11月12日)に雨が降ったため、荒れた路面での開催となった[17]

準備段階でコースの中心部に大きな穴が2か所見つかり、それを埋めるために応急処置も講じられたものの、「これじゃとても走れっこない」と苦言が呈され、開催前夜にロードローラーで4時間がかりで整地して補修したとも言われている[8][注釈 4]

この大会は興行として成功はしたものの、月島の埋立地も路面の劣悪さはそれまでの開催地と変わらず、その後、この場所で自動車レースが開催されることは二度となかった[18]

内容

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前回大会から9年経ち、1920年代とは形状が異なるカーチス号。

当初は6日と7日に開催される予定だったが[19][20]、連日の降雨のため延期され[21]、13日と14日に開催された[22][9]

20マイルで争われた決勝レースでは、アート商会のアート・カーチスが悪路にもかかわらず平均周回速度で時速100 ㎞以上を記録する速さで走り、内容としても見ごたえのあるものとなったと評価されている[9]

この全日本自動車競走大会は今回の一度だけでなく、継続してもらいたい。見られるとおり出場車は現在のところ、ほとんどが外国製に限られている状態だ。これではいかん。優秀な国産品生産を奨励と刺激のためにも、極めて有意義な企てであると信ずる。やがてこれに代わって優秀な国産自動車が挑戦し制覇する日近きを望んで止まぬ[23] — 審判長を務めた田中清陸軍大佐の演説
何しろ(自動車レースは)欧米各国では全盛を極めているが、我国ではかつて立川、芝浦、代々木で数回行われたのみでその後久しくこの壮挙が行われず、十年来初めての素晴らしい計画の事とてその人気はまさにその爆音の如くに爆発した。出場選手は東京、横浜を中心に大阪、京都、神戸、その他各方面から一粒よりの選手三十余名で、各自精鋭車を駆り栄冠目ざして命を的に弾丸疾駆の競走は見る者を興奮のるつぼにたたき込んでいる。けだしスピード狂時代の豪華版である。[14] — 初日を終えて大会の成功を伝える『報知新聞』記事(1934年10月14日)

余興における試み

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飛行機と自動車の競争

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余興として、報知新聞社が所有するユンカース・A50型(操縦者は同社の早川飛行士。第六報知号[2]もしくは第七報知号[4][注釈 5])と、アルヴィスに乗る関根宗次、ブガッティに乗る藤本軍次による空と陸の競争が行われた[6][3][2]

早大学生競走

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余興として、「早稲田大学学生競走」[6]の名で開催された。早稲田大学の自動車部は1934年に創部されており[W 1]、同年2月の時点で自動車部による早慶戦も行われているが[24]、この余興に参加したのも同大自動車部なのかは伝わっていない。

運営関係者

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  • 大会会長: 堀内文次郎(陸軍中将)[25]
  • 審判長: 田中清(陸軍大佐・陸軍自動車学校幹事)[6][23]
  • 審判: 小西昌生(陸軍少佐)、中川宇三郎(陸軍大尉)、曾我武雄(陸軍大尉)、染木武夫(陸軍中尉)[6]

エントリーリスト

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開催2日目の時点で、『報知新聞』は選手の数を「三十余名」と告知している[14][16]

車番 ドライバー 車両 馬力[6] 出典
1 内田光三[注釈 6] マーモン 25 [6]
市川武男 [26]
市川金四郎
2 上野倉造 シボレー 25 [6]
栄田義信 [26]
3 牧野眞 フォード 24 [6][25]
4 丸山哲衛 スワロー 32 [6][26]
5 関根宗次 アルヴィス 11 [6]
6 多田健蔵 イソッタ 44 [6]
7 長島正虎 フォード 24 [6][26]
三津石六郎[注釈 7] フォード (不明) [4][26]
8 内山駒之助 テルコ・ビッドル 17 [6]
10 木村安治 ブガッティ 17 [6][25]
11 川越豊 ウイリス 15 [6][26]
12 飯塚昌弘 テルコ・ビッドル 19 [6]
14 小澤昇太郎 フォード 24 [6]
16 村山竹四郎 クロネコ[注釈 8] 24 [6]
諸星光 フォード (不明) [25]
18 岩井治喜 ドラゴン 19 [6]
19 栄田義信[注釈 9] シボレー 25 [6]
20 榊原真一 アート・カーチス 51 [6][27]
22 伊澤誠三 ピアース・アロー 36 [6][25][26]
[注釈 10] 内藤喜代治 ポンティアック [26]
[注釈 11] 内田光雄 フォード [26]

各レースの上位

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1日目の予選レースと早大学生競走の周回数は5周(5マイル)の予定だったが[6]、路面状況が良くなかったため、当日に3周に減らされた[2]

予選レースの組み合わせは抽選で決められた[25]。両日の決勝の優勝者にはそれぞれ賞金1,000円が贈られた[6]

レース (周回数)
1周は約1マイル
1着 2着 3着 補足 出典
車番 ドライバー 車両 タイム 車番 ドライバー 車両 タイム 車番 ドライバー 車両 タイム
第1日・第1予選 (3周) 8 内山駒之助 テルコ・ビッドル 3:34 11 川越豊 ウイリス 3:34 7 三津石六郎 フォード 4:04 [2][26]
第1日・第2予選 (3周) 20 榊原真一 アート・カーチス 2:52 10 木村安治 ブガッティ 2:55 1着の平均速度はこの日の最速で、時速およそ98 ㎞(時速61マイル強[4])を記録。 [2][26]
早大学生競走 (3周) 山田 フォード 3:22 米倉 シボレー 3:22 白木 シボレー 4着は西尾(フォード)。 [2][26]
第1日・第3予選 (3周) 7 長島正虎 フォード 3:23 5 関根宗次 アルヴィス 3:27 加藤 テルコ・ビッドル 3:41 [2][26]
第1日・第4予選 (3周) 2 栄田義信 シボレー 3:14 4 丸山哲衛 スワロー 3:38.2 22 伊澤誠三 ピアース・アロー 3:46 [2][26]
報知杯争奪競走 (7周[4]) 10 木村安治 ブガッティ 7:01 11 川越豊 ウイリス 7:32 22 伊澤誠三 ピアース・アロー 他にフォード、テルコ・ビッドル、スワローが参加[4] [4][26]
会長杯争奪競走 (6周) 2 栄田義信 シボレー 6:54 20 榊原真一 アート・カーチス 6:58.5 7 長島正虎 フォード 7:36 榊原が圧倒していたが、最終周直前に一回転するスピンを喫し、栄田が1着となる[4]。他にマーモン、テルコ・ビッドルが参加[4] [4][26]
フォード杯競走 (7周) 5 関根宗次 アルヴィス 8:50 22 伊澤誠三 ピアース・アロー 8:52 11 川越豊 ウイリス 9:16 上位3名で接戦が演じられた[4]。他にフォード、テルコ・ビッドルが参加[4] [4][26]
飛入競走 (7周) 1 市川武男 マーモン 10:09 7 三津石六郎 フォード 10:22 11 川越豊 ウイリス 10:56.2 上位3名で抜きつ抜かれつのレースとなった[4]。他にシボレーが参加[4] [4][26]
決勝 (10周) 20 榊原真一 アート・カーチス 12:19 7 三津石六郎 フォード 14:24 [注釈 12] 1日目の決勝レース。 [4][26]
早大学生競走 (3周) 長谷川 フォード 4:48 猪村 クロネコ[注釈 8] 1日目の最終レース(余興)。 [4][26]
第2日・第1予選 (5周) 7 長島正虎 フォード 5:48 4 丸山哲衛 スワロー 5:53 8 内山駒之助 テルコ・ビッドル 7:50 [5][26]
第2日・第2予選 (5周) 10 木村安治 ブガッティ 5:29 3 牧野眞 フォード 5:31 22 伊澤誠三 ピアース・アロー 5:47 他に諸星(#16)が出走した[25]。1着の平均時速はこの日の最速で[5][29]、時速およそ87.5 km。直線の最高速では時速176 ㎞(時速110マイル)を記録した[5][29] [5][26]
第2日・第3予選 (5周) 20 榊原真一 アート・カーチス 5:49 2 上野倉造 シボレー 6:00 11 川越豊 ウイリス 6:00.2 [5][26]
第2日・第4予選 (5周) 2 栄田義信 シボレー 5:43.5 5 関根宗次 アルヴィス 5:50.5 内藤喜代治* ポンティアック 10:01 [5][26]
会長杯競争 (7周) 20 榊原真一 アート・カーチス 7:57 2 上野倉造 シボレー 8:26 11 川越豊 ウイリス 8:26.5 榊原が序盤から悠々と首位を走って圧勝した[29]。2位争いはコーナーはウイリス、直線はシボレーにそれぞれ分があり、ゴールまで白熱した接戦が演じられた[29] [29][26]
報知杯競争 (7周) 11 川越豊 ウイリス 8:31 22 伊澤誠三 ピアース・アロー 8:36.5 内藤喜代治* ポンティアック 序盤はフォードがリードしたが、5周目にトラブルによりリタイアし、2番手から首位に立ったウイリスが優勝した[29] [29][26]
フォード杯競走 (7周) 3 牧野眞 フォード 8:24 2 上野倉造 シボレー 9:29 8 内山駒之助 テルコ・ビッドル 牧野が2位以下を周回遅れにして圧勝[25]。2着ドラゴン、3着シボレーの順でゴールしたが、ドラゴンはコースを誤ったため失格となる[29] [29][25][26]
飛入競走 (10周) 内田光雄* フォード 12:06 5 関根宗次 アルヴィス 12:17.2 1 市川四郎 マーモン 12:32.5 9台で争われた[29] [29][26]
決勝 (15周) 20 榊原真一 アート・カーチス 17:36.2 10 木村安治 ブガッティ 18:16 2 栄田義信 シボレー 18:36.2 2日目の決勝レース。長島のフォード(#9)が棄権したため、3台で争われた[29]。スタートは木村(ブガッティ)が良かったが、1周目の内に榊原(アート・カーチス)が抜き去り、以降は榊原が2番手以下を大差で引き離して悠々と1着でゴールした[29] [29][26]
早大学生競走 (3周) 諏訪 フォード 3:53 長谷川 フォード 3:58.2 西村 シボレー 2日目の最終レース(余興)。 [29][26]
  • *印 出典では姓のみ記載されており、1934年当時のNARCの名簿に基づいて名前を補っている(同姓の別人という可能性を排除できない)。

脚注

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注釈

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  1. ^ 前売券が東京市内各所で販売された。優待券持参の場合は報知新聞社の本社受付でのみ前売券の割引販売が行われ、それぞれ1円20銭(特等席)、80銭(一等席)、35銭(大衆席)で売られた[6]。当時は映画の入場券は50銭ほどという物価水準[7]
  2. ^ 「全日本」の読みは「ぜんにほん」と「ぜんにっぽん」のどちらだったか不明。
  3. ^ この大会について、『報知新聞』の記事やNARCによる広告では、回数については触れていない(「1925年以来」の開催であることに触れた記事は複数ある)。
  4. ^ 当時の新聞は、1920年代に自動車レースを盛んに取り上げていた英字新聞は記事を載せず、『報知新聞』は、会場について「けふコースの調子も満点」と絶賛している[5]
  5. ^ 初日の競争は記事によって第六号と書いているケースと第七号と書いているケースの両方がある、2日目の競争は第七号と記載しているケースのみを確認できる。
  6. ^ 開催前のエントリーリストには名があるが[6]、実際に参戦したのかは不明。
  7. ^ 開催前のエントリーリストには記載がない。1日目に車番「7」のフォードで出走しており、決勝では2位になったと報じられている[4]
  8. ^ a b 「クロネコ」は銀座で営業していたカフェーカフェー・クロネコのこと[2][17]。レース当日は紫の着物に赤いたすき姿の同店のホステス約100名が応援に駆け付けたという[2][17]。車両は「米国車」[6]ということ以外は定かではない。
  9. ^ 開催前のエントリーリストでは車番「19」として栄田とシボレーの名があるが[6]、レース結果では[26]、車番は「2」になっている。
  10. ^ 車番は記録には見えないが、1934年時点で内藤のNARCの会員番号は、「35」なので[18]、慣習通りであれば、それを車番としていた可能性が高い(多摩川第1回大会では、「35」を使用している[28])。
  11. ^ 車番は記録には見えないが、1934年時点で内田のNARCの会員番号は、「31」なので[18]、慣習通りであれば、それを車番としていた可能性が高い。
  12. ^ 決勝では他にシボレーとテルコ・ビッドル(号車)を含めた4台が出走したが、この2台はリタイアしたため、完走は2台のみとなった[4]

出典

[編集]
  1. ^ 『報知新聞』昭和9年(1934年)10月12日・朝刊 10面・広告
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 『報知新聞』昭和9年(1934年)10月14日(13日夕刊) 2面
  3. ^ a b 『報知新聞』昭和9年(1934年)10月13日・朝刊 7面
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『報知新聞』昭和9年(1934年)10月14日・朝刊 7面
  5. ^ a b c d e f g h i j 『報知新聞』昭和9年(1934年)10月15日(14日夕刊) 3面
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 『報知新聞』昭和9年(1934年)10月6日(5日夕刊) 3面
  7. ^ a b 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.29
  8. ^ a b 自動車ジュニア、「日本に芽生えた自動車レース その歴史と生い立ち」(司会・梶外治郎) pp.44–55中のp.47
  9. ^ a b c d e f g h 戦前自動車競走史-4 日本自動車競走倶楽部の活動と藤本軍次(岩立)、『Old-timer』No.72(2003年10月号)
  10. ^ 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.35
  11. ^ a b 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.36
  12. ^ a b 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.8
  13. ^ “Calendar of Events” (英語). The Japan Advertiser: p. 5. (1934年5月5日) 
  14. ^ a b c d 『報知新聞』昭和9年(1934年)10月14日・朝刊 10面
  15. ^ 定本 本田宗一郎伝(中部2017)、p.118
  16. ^ a b 『報知新聞』昭和9年(1934年)10月14日・朝刊 14面
  17. ^ a b c 定本 本田宗一郎伝(中部2017)、p.115
  18. ^ a b c 戦前自動車競走史-5 多摩川スピードウェイ開幕(岩立)、『Old-timer』No.73(2003年12月号)
  19. ^ 『報知新聞』昭和9年(1934年)10月5日(4日夕刊) 1面・広告
  20. ^ 『報知新聞』昭和9年(1934年)10月5日・朝刊 7面
  21. ^ 『報知新聞』昭和9年(1934年)10月10日・朝刊 7面
  22. ^ サーキットの夢と栄光(GP企画センター1989)、p.19
  23. ^ a b 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.28
  24. ^ 『東京朝日新聞』昭和9年(1934年)2月23日・朝刊 3面
  25. ^ a b c d e f g h i 日本の自動車レース史(杉浦2017)、「日本自動車競走選手権大会に参加して」(牧野眞) p.30
  26. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.132
  27. ^ 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.31
  28. ^ 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.48
  29. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『報知新聞』昭和9年(1934年)10月15日・朝刊 7面
ウェブサイト
  1. ^ 自動車部”. 早稲田大学 競技スポーツセンター. 早稲田大学. 2022年11月12日閲覧。

参考資料

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書籍
  • 桂木洋二 (編)『日本モーターレース史』グランプリ出版、1983年7月25日。ASIN 4381005619ISBN 978-4381005618NCID BN13344405 
  • 中部博『本田宗一郎伝 世界が俺を待っている』集英社、1994年4月25日。ASIN 4087801284ISBN 978-4087801286NCID BN11347967 
  • 杉浦孝彦『日本の自動車レース史 多摩川スピードウェイを中心として』三樹書房、2017年4月17日。ASIN 4895226670ISBN 978-4-89522-667-7NCID BB23601317 
雑誌 / ムック
  • 『自動車ジュニア』各号中の記事
    • 『1965年4月号』創進社、1965年4月1日。 
  • Old-timer』各号中の記事
    • 岩立喜久雄「轍をたどる(21) 戦前自動車競走史-4 日本自動車競走倶楽部の活動と藤本軍次」『Old-timer』第72号、八重洲出版、2003年10月1日、166-173頁。 
    • 岩立喜久雄「轍をたどる(22) 戦前自動車競走史-5 多摩川スピードウェイ開幕」『Old-timer』第73号、八重洲出版、2003年12月1日、166-173頁。 
新聞
第8回大会
(1925年12月・洲崎埋立地{砂町})
全日本自動車競走選手権大会
(第9回日本自動車競走大会 / 1934年10月・月島4号埋立地)
多摩川第1回大会
(1936年6月・多摩川スピードウェイ)