自動車競走大会 (1925年6月)

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日本自動車競走大会 > 自動車競走大会 (1925年6月)
自動車競走大会
(第7回日本自動車競走大会)
開催概要
主催 日本自動車競走倶楽部 (NARC)
後援 自動車技術奨励会[1]
東邦自動車学校[2]
開催日 1925年6月14日(日)
1925年6月16日(火)[注釈 1]
開催地 大日本帝国の旗 大日本帝国
愛知県名古屋市 名古屋東練兵場
コース形式 仮設オーバルトラック非舗装
コース長 不明(おそらく1マイル)
レース距離 20マイル(1日目決勝レース)
20マイル(2日目決勝レース)
決勝レース順位 (1日目)
優勝 藤本軍次 (ハドソン)
2位 石川元吉 (キャデラック)
3位 関根宗次 (プレミア)
決勝レース順位 (2日目)
優勝 関根宗次 (プレミア)
2位 藤本軍次 (ハドソン)

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1925年大正14年)6月の自動車競走大会は、日本愛知県名古屋市において開催された四輪自動車レースである。日本自動車競走大会の第7回大会にあたる[注釈 2]

概要[編集]

日本自動車競走大会としては、名古屋では初の開催で[4][5]、関東地方以外での開催は、1923年(大正12年)7月に大阪で開催された第3回大会に続く、2例目となる。

東京から遠征した一行は行きは鉄道で車両を輸送し、帰りは各自がレースで使用した車両で自走して東京まで帰っていった[3]。第3回大会とは異なり、今回は関西地方からの参加者や現地の参加者はなく、関東からの遠征組のみで競走が行われた[3]

興行としては、日曜日に開催された1日目はすこぶる盛況であったと伝えられている[6]

会場[編集]

会場となった名古屋東練兵場(陸軍第3師団)について、当時の新聞では、自動車操縦技術向上の意味から陸軍省が練兵場の使用を許可したと報じられている[7]

遠征であることから、中区松枝町の東邦自動車学校に大会開催の仮事務所が置かれた[1]

今回の競走大会は既に陸軍に於て重要と認められた自動車操縦の技術を錬磨し合せて将来国防交通上の一大機関たるべき自動車知識普及の為め開催するもので自転車オートバイとは売って変た壮烈なものである。[8] — 名古屋初開催にあたり、自動車レースの開催意義について解説した『新愛知』記事より

エントリーリスト[編集]

車番 ドライバー 車両名 補足
3 内山駒之助 ホール・スコット
5 関根宗次 プレミア
7 藤本軍次 ハドソン
9 澤口 オークランド
14 森田一郎 ピアース・アロー
18 中村 チャンドラー
21 榊原真一 アート・カーチス アート商会からは2台中1台のみ遠征するということが事前に予告されており[9]、アート・ダイムラーは遠征に参加しなかった。
22 石川元吉 キャデラック
出典: [4][3]

各レースの1着[編集]

レース (距離) 車番 ドライバー 車両の登録名(車両名) タイム 内容 出典
1日目
第1回(3マイル) 14 森田一郎 ピアース・アロー 2着・藤本 [3]
第2回 (不明)
第3回 5 関根宗次 プレミア [3]
第4回 (不明)
第5回 (不明)
第6回 (不明)
第7回(B級・10マイル) 18 中村 チャンドラー 2着・森田、3着・澤口 [4][6]
第8回(A級・20マイル) 7 藤本軍次 ハドソン 17:09 下記の「#決勝レース (1日目)」を参照。 [4][6][3]
2日目
第1回 (不明)
第2回 (不明)
第3回 (不明)
第4回(5マイル) 14 森田一郎 ピアース・アロー [3]
第5回 (不明)
第6回 (不明)
第7回 (不明)
第8回 (不明)
  • 2日目のレース数は不明。関根宗次が優勢で決勝レースを含む4レースで1着、森田が第4レースを含む2レースで1着、藤本、榊原、中村がそれぞれ1レースで1着を獲得したと伝えられている[3](そのため8レースあったらしいことは判明している)。

決勝レース (1日目)[編集]

決勝レースは20マイルで争われ、5名のドライバーが参戦した[6]

順位 車番 ドライバー 車両 周回数 タイム/リタイア原因
1 7 藤本軍次 ハドソン 15 17:09
2 22 石川元吉 キャデラック 15 17:12.2
3 5 関根宗次 プレミア 15
出典: [4][6][3]

決勝レース (2日目)[編集]

決勝レースは20マイルで争われ、このレースにはファイヤストンカップが掛けられた[3]

順位 車番 ドライバー 車両 周回数 タイム/リタイア原因
1 5 関根宗次 プレミア 15 18:26.5
2 7 藤本軍次 ハドソン 15 19:41.2
DSQ 22 石川元吉 キャデラック 15
出典: [2][3]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 2日目は15日(月)に開催される予定だったが、降雨により順延した[2][3]
  2. ^ 当時の広告でも「第七回」と記載されている[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c 『名古屋新聞』大正14年(1925年)6月12日(11日夕刊) 1面記事・広告 ※14日(13日夕刊) 1面にも同内容の広告あり。
  2. ^ a b c 『新愛知』大正14年(1925年)6月17日・朝刊 7面記事
  3. ^ a b c d e f g h i j k l “Tokyo cars cleaned up motor events run on the Nagoya track recently” (英語). The Japan Times & Mail: p. 15. (1925年6月28日) 
  4. ^ a b c d e 『名古屋新聞』大正14年(1925年)6月15日・朝刊 7面記事
  5. ^ サーキットの夢と栄光(GP企画センター1989)、p.18
  6. ^ a b c d e 『新愛知』大正14年(1925年)6月15日・朝刊 7面記事
  7. ^ 『名古屋新聞』大正14年(1925年)6月13日(12日夕刊) 2面記事
  8. ^ 『新愛知』大正14年(1925年)6月12日・朝刊 8面記事
  9. ^ “Nagoya to hold automobile races beginning June 14” (英語). The Japan Times & Mail: p. 1. (1925年6月7日) 

参考資料[編集]

書籍
  • 桂木洋二 (編)『日本モーターレース史』グランプリ出版、1983年7月25日。ASIN 4381005619ISBN 978-4381005618NCID BN13344405 
新聞
第6回大会 (1925年5月・代々木練兵場) 自動車競走大会
(第7回日本自動車競走大会 / 1925年6月・名古屋東練兵場)
第8回大会 (1925年12月・洲崎埋立地)