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自動車大競走 (1924年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本自動車競走大会 > 自動車大競走 (1924年)
第4回自動車大競走会[1][2]
(第4回日本自動車競走大会)
開催概要
主催 日本自動車競走倶楽部 (NARC)
後援 報知新聞社
開催日 1924年4月20日(日)
開催地 大日本帝国の旗 大日本帝国
東京府立川市 立川飛行場
コース形式 仮設オーバルトラック非舗装
コース長 2マイル(約3.2 ㎞)[3][4][注釈 1]
レース距離 50マイル(決勝レース)[7]
天候 快晴[8][9]。午後は次第に風が強くなる[3]
観客数 4万人超[3][10][11][12]もしく5万人超[13]
入場料 無料[5][14]
結果
優勝 関根宗次 (プレミア)
2位 伊達秀造 (マーサー)
3位 藤本軍次 (ハドソン)

« 第3回大会 (大阪)
第5回大会 (鶴見) »

1924年大正13年)4月の自動車大競走会(じどうしゃだいきょうそうかい)は、日本東京府立川市において開催された四輪自動車レースである。日本自動車競走大会の第4回大会にあたる[注釈 2]

主なトピック

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開催の背景

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1923年(大正12年)7月に大阪で第3回大会が開催された後、同年9月1日に関東大震災が発生し、この大会の参加者や関係者も大部分が被災した。同時に、この震災は、日本における自動車の位置付けに大きな変化を生じさせた。

震災によって鉄道が甚大な被害を被り、路面電車も東京市電がほぼ壊滅した一方で、それまで贅沢品と見られていた自動車は、車両が通れるスペースさえあれば走行できることから、人や物資を運ぶことで復興に寄与してその有用性を広く認められるようになった[15][W 1]。この出来事を契機として、日本における自動車の台数は急速に増えていき[注釈 3]、自動車への関心も高まった。

結果として、この震災は自動車競走大会にも二律背反した影響を与え、震災による被害が大会継続に困難を与えた一方、震災復興時に生じた自動車への関心の高まりは、この第4回大会の開催実現を後押しするものとなった[11]

そんな中、1924年(大正13年)初めになって、4月に自動車競走を開催するという話が持ち上がった[17]。前年の震災から数か月が経ち、復興が徐々に進んだことで東京の人々も行楽に飢えている時期でもあった[18][14]。既にオートバイレースに関心を示していた帝国陸軍も、四輪自動車によるこの大会にも支援の意向を示した[11]

参加者の増加

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アート・ダイムラーアート商会)。日本自動車競走大会では初の航空機用エンジンを搭載した参加車両。

前年の震災によって自動車への需要と関心が高まったことを背景として、この大会では多くの新しい参加者が加わった[11]

このレースではアート商会が初めて参戦し[19]、航空機エンジンを用いたアート・ダイムラー(通称「ダイムラー号」)を持ち込んだ[20]。また、白楊社は第2回大会で投入したマーサー英語版に代えて、米国車のガードナー英語版をレース仕様に仕立てた車両を持ち込んだ。

会場

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それまでの東京で開催されていた大会(第1回と第2回)は洲崎の埋め立て地を開催地としていたが、同地は震災で被災して使用できなくなっていたため、帝国陸軍の協力の下、立川飛行場(1922年開設)が会場に充てられることとなった[5][14]。前回の大阪の城東練兵場に続いて陸軍の敷地であり、これは自動車関係者と陸軍関係者の間に緊密な関係ができていたため実現したと考えられる[14]

広大な立川飛行場が会場となったことで、1周2マイル(約3.2 km)の長さのコースを余裕を持って設定することが初めて可能となり[3][4][注釈 1]、コース幅も非常に広くとられた[3]

しかし、会場となったのは飛行場用として整備される前の未開地で、レースコースはほとんど整地されていない麦畑に作られ[3][21]、レース中はあまりの上下動のひどさにボンネットなどが外れてしまう車が続出し、走っている車がどれも裸同然になるほどだった[21][注釈 4]。コーナーはバンクしておらず、路面もとても荒かったが、コース幅を非常に広く設定できたことが幸いし、この大会ではコースアウトによるクラッシュや、前回大会で起きたような車両同士の接触は全く発生しなかった[3]

(今後)この国で自動車レースの人気がますます盛んになることは間違いありません。それにあたって、適切なサーキットが存在しないことは問題です。立川の会場は広さは充分なものでしたが、路面の状態は洲崎埋立地よりもさらにお粗末なものでした。今回の大会でほぼ全ての車が足回りやフロント車軸を破損したほどでした。
必要なのは専用のダートトラックであり、バンク付きのコーナーであり、簡易舗装された路面です。そんなサーキットがあれば、これまで会場としてきたどのコースよりもはるかに速く、かつ安全に走ることができるようになります。比較的安価に建設できることから、その投資は1年程度で元を取ることも可能でしょう。安価な木製の座席を備えた屋根付きのグランドスタンドをメインストレートに据えるのです。そうしたサーキットを東京に近い至便な場所に建設し、レースを適切に宣伝しさえすれば、毎回50,000人の観客が来場することを見込んでも期待し過ぎということはないでしょう。[11] — 『ジャパン・アドバタイザー』による立川のコース評と提起[注釈 5]

内容

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当初の予定では4月13日(日)に決勝レースが行われる予定で、参加台数が多かったため、4月10日(木)に代々木練兵場で予選が行われた。しかし、13日に26 ㎜を超える降雨があったため、決勝は20日(日)に延期された。

レース当日は開催地である立川町の記念日にあたり、入場料は無料となる[5][14][注釈 6]。加えて、季節も良く、この回は大変な盛況となり[3][6]、4万人以上の観客が立川飛行場に足を運んだと言われている[3][12]。花見客の時期と重なったこともあって[9]、レース開催日には新宿駅から立川駅まで臨時列車が運行されたが、各駅で乗り切れない客が出るほどの賑わいとなった[14][20]。立川駅から会場までの道も会場を目指す観客であふれた[3][注釈 7]

この日の入場は五万以上に達し立川駅では五回の臨時列車を仕立てた程で立川町ではありとあらゆる飲食物を食われてしまった[13] — 当日の盛況ぶりを伝える『報知新聞』記事(1924年4月21日)より[注釈 8]

結果として、コースの規模やコンディション、当日の内容の面から、「日本で最初のレースらしい走りがいのあるもの」[5]になったと評価されるレースとなった[25]

運営関係者

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エントリーリスト

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24台という東京開催では最多となる多数の車両が参戦した[27][28][29][注釈 9]

この大会では、レースの開催前に代々木練兵場において予選が行われ、参戦車両をその走り具合から「A」「B」「C」の3クラスに分けた[30]

車番 等級[1] ドライバー 車両の登録名(車両名) 補足
1 A 中村重忠 ハドソン 藤本のハドソンを再現したレプリカ[31][20]。精巧なレプリカであることに加えて、新車であるため、藤本の古いハドソンより有利と見られていた[31]
2 A 伊達秀造 マーサー
3 C 森田捨次郎 ロコモビル
4 A 丸山哲衛 ロジャー
5 A 関根宗次 プレミア 関根はこのレースからプレミアの使用を始め、大会全体を通じて優位を保ち、決勝レースでも優勝する[32]
6 A 高橋治雄 スタッツ
7 A 藤本軍次 ハドソン 歴戦を重ねた藤本のハドソンは、すでに車体のフレームにガタが来ていたことを大会前から懸念されていた[31]
8 B 内山駒之助 チャルマー英語版・マスターシックス[33] 1915年型[3]。内山のチャルマーは旧式で直線の速さは持たなかったが、コーナリングの高速旋回性能は優れていると言われていた[31]
土曜に行われた練習走行では最速タイムを記録した[27]
9 C 沢口[1](澤口[2] オークランド
10 A 千葉 キング
11 C 菅原敏雄[注釈 10] ガードナー 車主は白楊社
12 C 小林 テルコ・ビッドル
14 C 坂井[1](堺[26] 報知
15 C 三津石六郎 ヤングフェロー 「ヤングフェロー」の名はレース当日に付けられたもので[37]、実際の車両はロコモビル英語版[3][38][39][注釈 11]
17 C 佐久間章 シボレー
18 C 刀根六兵衛 チャンドラー
19 C 茂手木 パッカード
20 A 榊原真一 アート・ダイムラー 車主はこの大会から参戦したアート商会。事前記事では、エンジンの出力は120馬力で路面状況が良ければ平均時速80マイルから90マイル、路面がどんなに悪かったとしても平均時速60マイルは出ると伝えられていた[30]
その高い出力はレース前から周知され、他の車と比べて非常に大きな車体でもあったことからも注目を集めた[3]
40 B 沢田[1](澤田[2] ピアレス
41 B 森田(憲)[29][41] エム・ユー・シックス[1][2][42] エム・ユー・シックス(M. U. Six)はキャデラックの車体とコンチネンタル製エンジンを組み合わせた改造車両[3]
デビス[28][29][41] 当日の写真には写っているが[28][29]、結果表には名前がない[26]
43 B 米沢[1](米澤[2] チャルマー
44 B 菊池 ワーレン 当日の写真には写っており[28]、事前のエントリー表にも名前があるが、結果表には名前がない[26]
47 マクスウェル(Maxwell)[3] エントリー表には名前がないが当日の参加は確認できる。第3レースに出場したが、ペースについていけず早々にリタイアしたとされる[3]
出典: [1][2][28][26]
  • 印 ドライバーの名前が不明。
  • 車番20までの18台(18名)は雑誌『モーター』(極東書院)の結果表に名前がある[26]。他はエントリーリストには名があるが、レース結果には名がない。

各レースの1着

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各レースには賞典がかけられ、各者の名の下にレースが行われ、賞が授与された。

レース (距離) 周回数[3] 等級[3] 賞典 車番 ドライバー 車両の登録名(車両名) タイム 補足 出典
第1回(10マイル) 5 C ライジングサン石油 11 菅原敏雄 ガードナー 11:49 7台が参戦[3]。2着・小林(12:48)、3着・佐久間(15:28)。
レースは菅原の楽勝だった[3]
[1][8][3][34][37]
第2回(15マイル) 7.5 A, B, C グッドイヤー 7 藤本軍次 ハドソン 17:18 9台が参戦[3][注釈 12]。2着・関根(17:36)、3着・榊原(18:24) [1][8][3][34][37]
第3回(20マイル) 10 B, C ジャパン・アドバタイザー 12 小林 テルコ・ビッドル 25:17 7台が参戦[3]。下記の第3レース。 [1][13][34][43]
第4回(50マイル) 25 決勝 日本自動車競走倶楽部
報知新聞社
5 関根宗次 プレミア 58:19 12台が参戦[3]。下記の決勝レース。 [1][13][34]

各レースの内容

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第3レース

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レース開始直後、トップを奪った菅原を2番手の内山が激しく攻めるが、2周目に内山の車のエンジンが停止してしまう[3]

内山がリタイアした後、小林が2番手になったが、小林のテルコ・ビッドルはエンジンに不調を抱えていたため、菅原は悠々とレースをリードする[3]。しかし、菅原のガードナーはゴールまで残り100ヤード(約91メートル)のところでエンジンが止まってしまい、小林が逆転優勝を果たした[3]。菅原はエンジンの再始動に成功し、なんとか2位に滑り込んだ[3]

順位 車番 ドライバー 車両 周回数 タイム
1 12 小林 テルコ・ビッドル 10 25:17
2 11 菅原敏雄 ガードナー 10 26:57
3 15 三津石六郎 ヤングフェロー 10 27:30
DNF 41 森田(憲) エム・ユー・シックス 7
DNF 8 内山駒之助 チャルマー・オールドシックス 2
DNF 47 (不明) マクスウェル 2
出典: [13][3]

決勝レース

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最終レースは50マイルレース(25周)で争われた[44][7]

スタート直後に内山が首位を奪い、3周目の時点で上位勢は、内山、伊達、関根、菅原、藤本、榊原という順だった[3]

4周目で関根が伊達から2番手を奪い、8周目に首位の内山が燃料タンクのトラブルにより車を止め[3][11][注釈 13]、これにより関根が首位に立った[3]

同じ頃、藤本の車両はラジエーターキャップの不具合を起こし[45][3]、噴出した高温の水蒸気が藤本の視界を遮るトラブルが発生した[3]。これにより後退した藤本は周回遅れに沈み、首位は関根、2番手は菅原、3番手は伊達となる[3]。13周目には菅原がエンジントラブルによりピットストップを余儀なくされ、修復して再スタートはできたものの、大きく後退して優勝争いから脱落する[3]

以降は何事もなく、関根が首位でレースを走り切り、優勝を手にした[3]

順位 車番 ドライバー 車両 周回数 タイム
1 5 関根宗次 プレミア 25 58:19[13]もしくは58:14[3][46]
2 2 伊達秀造 マーサー 25 1:03:07
3 7 藤本軍次 ハドソン 24 1:11:00[注釈 14]
4 15 三津石六郎 ヤングフェロー 1:13:41
5 11 菅原敏雄[13] ガードナー 1:14:14
不明 47 (不明) マクスウェル [注釈 15]
DNF 8 内山駒之助 チャルマー・マスターシックス 8 燃料タンクの破損[3]
DNF 3 森田捨次郎 ロコモビル 8 原因不明[3]
DNF 20 榊原真一 アート・ダイムラー 7 コースアウト[3]
不明 1 中井重忠 ハドソン
不明 17 佐久間章 シボレー
不明 41 森田(憲) エム・ユー・シックス
出典: [1][13][27][44][3][35][47]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 1マイルという説もあるが[5][6]、当時の記事では2マイルとなっていること[3]に加えて、周回数も合わないため、2マイルと記載する。
  2. ^ この大会を報じる当時の記事でも「第4回大会」として扱われている[3]
  3. ^ 1922年(大正11年)時点で日本の自動車保有台数は12,091台(乗用車9,992台 / トラック2,099台)だったが、この大会が開催された1923年(大正12年)には14,737台、1924年には20,587台となり、大正期最後の大会(第8回大会)が開催された1925年には26,446台まで増加した[16]
  4. ^ これはNARCの会員が1965年に回想して語ったものだが[21]、当時の写真でもエンジンフードが外れた状態で走行している車両があることを確認できる。
  5. ^ 同紙はこの第4回大会(6月)の時に提案したサーキット建設案の図を実際に作成し、第5回大会(11月)後の12月に紙面に掲載している[22][23]
  6. ^ この「立川町の記念日」の詳細は不明。当初の開催予定日の4月13日についても、「当日の入場は無料」と事前告知がされている[24]
  7. ^ 当日は「立川始まって以来」と言われるほどの人の多さで[3]、当時の立川が都心から電車で1時間、車で1時間半程度を要する場所だったことを考えると、これは特筆すべき出来事だった[11]
  8. ^ 英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』紙も飲み物や食べ物の販売が記録的な売り上げとなったことを報じている[3]
  9. ^ その後も東京開催でこれを上回る参加台数となった大会はない(多摩川スピードウェイは神奈川県)。
  10. ^ 2017年に「発掘」された写真を根拠として、川越豊がドライバーだったという説もあるが[34][35]、エントリーリストやレース結果には菅原の名がある。根拠となっている写真には撮影時期についての記録がなく、第5回大会(鶴見)の物だろうと言われている(1日目の優勝の記念撮影と考えられる)ので[36]、ここでは菅原の名前のみを記載する。
  11. ^ 蒸気自動車ではなくガソリン車で、1911年型の4/30型(Model 30)[40]
  12. ^ 10台が走る予定だったが、内山がスタート前に棄権した。
  13. ^ その後、メカニックが修理して再び走ったものの、再度すぐに止まってしまい、リタイアとなる。
  14. ^ 秒は不明。
  15. ^ 最後まで走っていたものの、車輪をひとつ失い、三輪の状態となっていた[3]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『報知新聞』大正12年(1923年)4月13日・朝刊 8面・広告
  2. ^ a b c d e f 『東京朝日新聞』大正13年(1924年)4月13日・朝刊 8面・広告
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw “Tachikawa races are great success” (英語). The Japan Advertiser: p. 12. (1924年4月27日) 
  4. ^ a b 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.159
  5. ^ a b c d e 日本自動車工業史稿 第2巻(1967)、p.618
  6. ^ a b 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.17
  7. ^ a b 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.18
  8. ^ a b c 『報知新聞』大正12年(1923年)4月21日(20日夕刊) 3面
  9. ^ a b 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.160
  10. ^ “The Crouwd Was Enthusiastic.” (英語). The Japan Advertiser: p. 15. (1924年4月27日) 
  11. ^ a b c d e f g “Interest shown in automobile racing” (英語). The Japan Advertiser: p. 21. (1924年6月10日) 
  12. ^ a b 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「制止も聞かず」 pp.160–162
  13. ^ a b c d e f g h 『報知新聞』大正12年(1923年)4月21日・朝刊 9面
  14. ^ a b c d e f 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「その日、立川陸軍飛行場で」 p.145
  15. ^ 日本自動車史II(佐々木2005)、pp.130–133
  16. ^ 日本帝国統計年鑑 第49回(1930)、p.202
  17. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「大阪遠征から9か月」 p.141
  18. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「人々は花見に押し寄せた」 pp.142–144
  19. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「藤本軍次年譜」 pp.268–276
  20. ^ a b c 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「新規の参入者たち」 pp.259–260
  21. ^ a b c 自動車ジュニア、「日本に芽生えた自動車レース その歴史と生い立ち」 pp.44–55中のp.47
  22. ^ “Engineer Outlines Plan for Modern Race Track for Tokyo” (英語). The Japan Advertiser: p. 18. (1924年12月14日) 
  23. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「レースコースの提案」 pp.222–224
  24. ^ 『報知新聞』大正12年(1923年)4月11日・朝刊 9面
  25. ^ サーキットの夢と栄光(GP企画センター1989)、p.18
  26. ^ a b c d e f 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「立川の新顔」 pp.156–157
  27. ^ a b c 『東京朝日新聞』大正13年(1924年)4月21日・朝刊 7面
  28. ^ a b c d e 戦前自動車競走史-4 日本自動車競走倶楽部の活動と藤本軍次(岩立)、『Old-timer』No.72(2003年10月号)
  29. ^ a b c d 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.16
  30. ^ a b 『報知新聞』大正12年(1923年)4月13日・朝刊 11面
  31. ^ a b c d “Everything ready for today's races” (英語). The Japan Advertiser: p. 13. (1924年4月13日) 
  32. ^ “The Winner.” (英語). The Japan Advertiser: p. 12. (1924年4月27日) 
  33. ^ “Japan Speed Kings Ready For Contests” (英語). The Japan Times & Mail: p. 8. (1923年4月21日) 
  34. ^ a b c d e 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「レース仕様ガードナー」 pp.157–158
  35. ^ a b 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「1位、リタイア、2位、5位」 p.158
  36. ^ 日本の自動車レース史(杉浦2017)、「6 発掘された写真」 pp.104–105
  37. ^ a b c 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「グッドイヤー・カップは藤本君」 pp.164–166
  38. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.153
  39. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.261
  40. ^ “A Consistent Performer.” (英語). The Japan Advertiser: p. 16. (1924年4月27日) 
  41. ^ a b 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.193
  42. ^ “To Race Today at Tachikawa.” (英語). The Japan Advertiser: p. 13. (1924年4月13日) 
  43. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.165
  44. ^ a b “Auto Race Results” (英語). The Japan Times & Mail: p. 10. (1924年4月21日) 
  45. ^ “Motors race at Tsurumi” (英語). The Japan Times & Mail: p. 5. (1924年11月21日) 
  46. ^ “広告 (ライジングサン石油)” (英語). The Japan Advertiser: p. 15. (1924年4月27日) 
  47. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「優勝旗は関根君に」 p.170
ウェブサイト
  1. ^ 第1項 関東大震災と米国車輸入の急増”. トヨタ自動車株式会社. 2022年11月12日閲覧。

参考資料

[編集]
書籍
  • 内閣統計局(編)『日本帝国統計年鑑』 第49回、東京統計協会、1930年。NDLJP:1449710 
  • 自動車工業会『日本自動車工業史稿』 第2巻、自動車工業会、1967年2月28日。ASIN B000JA7Y64NCID BN06415864NDLJP:2513746 
  • 桂木洋二 (編)『日本モーターレース史』グランプリ出版、1983年7月25日。ASIN 4381005619ISBN 978-4381005618NCID BN13344405 
  • 佐々木烈『日本自動車史II ─日本の自動車関連産業の誕生とその展開─』三樹書房、2005年5月20日。ASIN 4895224546ISBN 978-4-89522-454-3NCID BA72460305 
  • 杉浦孝彦『日本の自動車レース史 多摩川スピードウェイを中心として』三樹書房、2017年4月17日。ASIN 4895226670ISBN 978-4-89522-667-7NCID BB23601317 
  • 三重宗久『戦前日本の自動車レース史 藤本軍次とスピードに魅せられた男たち』三樹書房、2022年4月20日。ASIN 4895227723ISBN 978-4-89522-772-8NCID BC14200480 
雑誌 / ムック
  • 『自動車ジュニア』
    • 『1965年4月号』創進社、1965年4月1日。 
  • Old-timer』各号中の記事
    • 岩立喜久雄「轍をたどる(21) 戦前自動車競走史-4 日本自動車競走倶楽部の活動と藤本軍次」『Old-timer』第72号、八重洲出版、2003年10月1日、166-173頁。 
新聞
第3回大会 (1923年7月・大阪 城東練兵場) 第4回自動車大競走
(第4回日本自動車競走大会 / 1924年4月・立川飛行場)
第5回大会 (1924年11月・鶴見埋立地)