八馬兼介 (初代)
表示
初代八馬 兼介(はちうま かねすけ、後名・兼翁、1839年8月31日(天保10年7月23日)[1][2] - 1918年(大正7年)2月3日[要出典])は、日本の商人(米穀商)、船舶業者[3]、資産家[4]、実業家。八馬汽船創業者。西宮貯金銀行、西宮銀行各頭取[1][5]。西宮酒造監査役[1][6]。族籍は兵庫県平民[1]。兼翁は祖業精米商を継承し、後海運業に転じて巨利を博し[7]、八馬家の基を起こした[8]。
人物
[編集]八馬勝蔵の長男[1][2]。1861年、米穀小売商開業[9]。1878年、帆船西尾丸購入、海運業創業[9]。回漕業を営む[2]。
養子永蔵の長男栄之助が1916年、早稲田大学商科を卒業すると、初代は翌年隠居し、栄之助に三代兼介を称させて家督を相続させた[10]。住所は兵庫県武庫郡西宮町浜久保[1]。
家族・親族
[編集]- 八馬家
- 父・勝蔵(兵庫平民[1]、精米商[8])
- 妻・とき(1847年 - ?、兵庫、藤井萬兵衛の二女)[1]
- 養子・永蔵(1871年 - 1917年、資産家、海運業、西宮肥料米穀社長)[11]
- 同妻・つや(1873年 - ?、兵庫、小川傳治郎の二女)[1]
- 同長男・三代兼介(1894年 - 1960年、旧名・栄之介[1]、精米及び海運業、資産家、神戸銀行頭取)[7][10][11]
- 同三男・安二良[1](1898年 - 1981年、八馬汽船社長)
- 同五男・駒雄[1](1906年 - ?、西宮酒精社長)
- 同六男・眞治[1](1909年 - ?、多聞酒造社長)
- 長女・喜美(1892年 - ?、大阪の質商、早瀬太郎三郎の妻)[1]
- 三女・政江(1901年 - ?)[1]
- 四女・寿江(1903年 - ?)[1]
- 五女・田鶴子(1908年 - ?)[1]
- 六女・和子(1911年 - ?)[1]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『人事興信録 第4版』や12-13頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月14日閲覧。
- ^ a b c 『大正人名辞典 第3版』978頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年2月19日閲覧。
- ^ 『関西実業名鑑 明治40年』62頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月14日閲覧。
- ^ 『全国五十万円以上資産家表 時事新報社第三回調査』9頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月14日閲覧。
- ^ 『日本全国諸会社役員録 明治34年』438頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月14日閲覧。
- ^ 『日本全国諸会社役員録 明治35年』上編466頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月14日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第10版 下』ハ53頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月14日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第7版』は11頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月14日閲覧。
- ^ a b 企業情報 会社沿革、八馬汽船公式サイト。
- ^ a b 『日本財閥経営史 地方財閥』218-219頁。
- ^ a b 『豪閥 地方豪族のネットワーク』385-393頁。
参考文献
[編集]- 商業興信所編『日本全国諸会社役員録 明治34年』商業興信所、1893-1911年。
- 商業興信所編『日本全国諸会社役員録 明治35年』商業興信所、1893-1911年。
- 橋本治策編『関西実業名鑑 明治40年』関西実業名鑑編纂所、1908年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 『全国五十万円以上資産家表 時事新報社第三回調査』時事新報社、1916年。
- 東洋新報社編『大正人名辞典 第3版』東洋新報社、1917年。
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 人事興信所編『人事興信録 第10版 下』人事興信所、1934年。
- 森川英正『日本財閥経営史 地方財閥』日本経済新聞社、1985年。
- 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年。