内厩寮
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内厩寮(ないきゅうりょう)とは、律令制において奈良時代後期に設置された令外官の一つ。天平神護元年2月(766年)設置。[1]
概要
[編集]宮廷の厩のことを司どり、頭(従五位上・助(正六位下)・大允(正七位下)・少允(従七位上)・大属(従八位上)・少属(従八位下)各1名よりなる[2]。これは左右馬寮の場合と全く同じである。
ただ官人の補任記事を読み解くと、宝亀年間から延暦年間まで「頭」は多くが近衛府の中将(員外中将)・少将が兼任しており、その他のものも衛府の要職を経験しており、位階は官位相当を超えたものだったようである。恐らく近衛府・中衛府・外衛府の成立に応じて、内廷の武備をかため、儀容を整えるためのものであったようである。
職掌として、内廷の馬を扱うものだったようで、
- 『本朝事始』(『伊呂波字類抄』より)…宝亀6年正月7日(775年)の宴に青馬を進上した。
- 太政官符の神護景雲2年正月28日(768年)格(三代格式弘仁3年12月8日(813年)太政官符より)…内厩寮解として信濃国牧主当伊那郡大領金刺舎人八麿の解。
- 九条本『延喜式』墨文書の宝亀4年2月25日(773年)太政官符案…摂津職から内厩寮あてに、調銭で交易された乾燥した土地1000囲が進上されている。
- 『続日本紀』延暦元年7月(782年)…雷雨によって、内厩寮の馬2疋が落雷で死亡[3]。
2より 、内厩寮が信濃国に牧を所有し、馬を貢上させていたことが分かり、これが勅旨牧につながっていると考えられている。 3より、相当数の馬中央で飼育されていたことがわかる。
内厩寮成立後も左右馬寮は存続するが、宝亀10年(779年)以降の任命記事(正月王(むつきおう)[4])はなくなり、天応元年(781年)からは主馬寮の記事がかわりに現れる(伊勢老人[5])。その後、内厩寮は『日本後紀』延暦25年正月(806年)の坂上石津麻呂が頭に[6]、主馬寮は4月の藤原山人が権助に任命された[7]のをもって現れなくなる。大同3年6月(808年)には左右馬頭として、藤原清主・坂上石津麻呂の任命記事があり[8]、この時にその役割を終え、主馬寮とともに再編されて、9世紀初めには廃止されたものと推定される、と亀田隆之は述べている。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『角川第二版日本史辞典』p701、高柳光寿・竹内理三:編、角川書店、1966
- 『続日本紀』4・5 新日本古典文学大系14 ・15 岩波書店、1995年、1998年
- 『続日本紀』全現代語訳(中)・(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年、1995年
- 『日本後紀』全現代語訳(上)・(中)、講談社学術文庫、森田悌:訳、2006年