内海倫
表示
勲一等 内海倫 | |
---|---|
人事院総裁 | |
任期 1984年2月27日 – 1990年4月1日 | |
任命者 | 第2次中曽根内閣 竹下内閣 |
前任者 | 藤井貞夫 |
後任者 | 彌富啓之助 |
個人情報 | |
生誕 | 1917年4月1日 兵庫県 |
死没 | 2012年8月3日(95歳没) 東京都稲城市 |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
内海 倫(うつみ ひとし、1917年〈大正6年〉4月1日 - 2012年〈平成24年〉8月3日[1])は、日本の内務・警察・防衛官僚。位階は従三位。元防衛事務次官。元人事院総裁。
来歴
[編集]姫路高校文科甲類[2]を経て東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、1941年(昭和16年)に内務省に入省。同期に高橋幹夫、柴田護、熊崎正夫、島田豊などがいる。内務省16年入省組は、後に「素心会」というOB団体を立ち上げている。
短期現役海軍主計科士官(6期)を志願し、海軍経理学校を卒業。日本の敗戦時には海軍主計少佐であった。後に内海は、短現6期組のOB団体である「土曜会」の主要メンバーとして、中曽根康弘をバックアップすることになる。
警察庁交通局、刑事局各局長を経て1969年(昭和44年)防衛庁人事教育局長に転じ、1970年(昭和45年)防衛事務次官に就任。1972年(昭和47年)5月に退官後、同年12月から1976年(昭和51年)まで国防会議事務局長。
1984年(昭和59年)から1990年(平成2年)まで人事院総裁を務め、退任後、人事院法律顧問を委嘱された。1990年(平成2年)の秋の叙勲で勲一等瑞宝章を受章。
2012年8月3日、急性肺炎のため東京都稲城市の病院で死去[3]。95歳没。没日付けで正七位から従三位へ昇叙[4]。
略歴
[編集]- 1941年(昭和16年)3月 東京帝国大学法学部政治学科卒業
- 1941年(昭和16年)4月 内務省に入省 内務属
- 1950年(昭和25年)9月27日 警察予備隊本部警務局教養課長
- 1952年(昭和27年)8月23日 保安庁保安局調査課長
- 1953年(昭和28年)8月29日 高知県国家地方警察隊長
- 1954年(昭和29年)7月1日 高知県警察本部長
- 1955年(昭和30年)7月1日 警察庁警備部警ら交通課長
- 1958年(昭和33年)4月1日 警察庁保安局交通課長
- 1959年(昭和34年)4月1日 兼科学警察研究所交通部長
- 1959年(昭和34年)4月16日 免兼科学警察研究所交通部長
- 1961年(昭和36年)4月1日 警視庁交通部長
- 1963年(昭和38年)8月2日 愛知県警察本部長
- 1966年(昭和41年)3月5日 警察庁交通局長
- 1966年(昭和41年)11月11日 警察庁刑事局長
- 1969年(昭和44年)11月21日 防衛庁人事教育局長
- 1970年(昭和45年)11月20日 防衛事務次官
- 1972年(昭和47年)5月23日 退官
- 1972年(昭和47年)12月22日 国防会議事務局長
- 1976年(昭和51年)12月10日 依願免本官
- 1984年(昭和59年)2月27日 人事院総裁
- 1984年(昭和59年)4月2日 同再任
- 1988年(昭和63年)4月2日 同再任
- 1990年(平成2年)4月1日 依願免本官
- 1990年(平成2年)6月1日 人事院法律顧問
- 1990年(平成2年)11月3日 叙勲一等授瑞宝章
- 1992年(平成4年)6月1日 人事院法律顧問再任
- 1994年(平成6年)6月1日 同再任
- 1996年(平成8年)6月1日 同再任
- 1998年(平成10年)6月1日 同再任
著書
[編集]- 『交通――実態と対策』(立花書房、1963年)
- 『道交法とつきあう法』(ごま書房、1979年)
脚注
[編集]- ^ “(おくやみ)内海倫氏が死去 元人事院総裁”. 日本経済新聞 (2012年8月9日). 2020年8月2日閲覧。
- ^ 「旧制高等学校物語 第15」財界評論新社 1968年
- ^ 内海倫氏死去(元人事院総裁) 時事通信 2012年8月9日閲覧[リンク切れ]
- ^ 官報本紙、平成24年9月7日