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内海町 (愛知県)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
うつみちょう
内海町
廃止日 1961年6月1日
廃止理由 新設合併
内海町、豊浜町師崎町篠島村日間賀島村
現在の自治体 南知多町
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 中部地方東海地方
都道府県 愛知県
知多郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 17.80 km2.
総人口 7,624
(愛知県郡市町村勢要覧[1]、1950年10月1日)
隣接自治体 知多郡美浜町豊浜町
内海町役場
所在地 愛知県知多郡内海町大字内海字中之郷7
座標 北緯34度44分23秒 東経136度52分22秒 / 北緯34.73981度 東経136.87286度 / 34.73981; 136.87286 (内海町)座標: 北緯34度44分23秒 東経136度52分22秒 / 北緯34.73981度 東経136.87286度 / 34.73981; 136.87286 (内海町)
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内海町(うつみちょう)は、かつて愛知県知多郡にあった

地理

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伊勢湾に注ぐ内海川の河口に砂丘が発達し、陸地化した溺れ谷に集落が発達した[2]。1844年(弘化元年)には大岩金十郎がウンシュウミカンの試験栽培に成功し、集落の周囲の丘陵部は知多みかん生産の中心地となったうえ、観光農園(ミカン狩り)などの観光業も行われている[2]

歴史

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江戸時代伊勢湾沿岸では海運業が盛んであり[2]内海船の船主の多くが内海に居を構えていた。有力な船主には内田家(尾州廻船内海船船主 内田家)などがある。1853年(嘉永6年)にマシュー・ペリーが来航した際には、成瀬隼人正が尾張藩の藩命で内海に砲台(台場)を築き、青銅製カノン砲4門が装備された[2]。明治初期には潮湯治の場として内海海水浴場が開かれ、明治末期には海水浴客相手の観光旅館なども建設された[2]。主に名古屋市などから観光客が訪れ、大正期には多くの別荘も建設された。昭和初期には日本初のサンドスキー場として内海サンドスキー場が開かれた[2]

年表

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  • 1878年(明治11年) - 岡部村、中之郷村、北脇村、馬場村、西端村、東端村、利屋村、名切村、楠村、吹越村、内福寺村が合併し、内海村となる。
  • 1889年(明治22年)10月1日 - 町村制施行に伴い、内海村が発足。
  • 1893年(明治26年)11月8日 - 内海村が町制施行し、内海町となる。
  • 1906年(明治39年)7月1日 - 内海町と山海村が合併し、内海町となる。
  • 1961年(昭和36年)6月1日 - 内海町、豊浜町師崎町篠島村日間賀島村が合併し、南知多町となる。

交通

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バス

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1918年(大正7年)には内田佐七や沢田嘉助によって知多自動車株式会社が設立され、武豊河和・内海を結ぶバス路線の運行を開始した[3]。知多自動車は知多半島でもっとも早く誕生したバス会社である[3]。1943年(昭和18年)6月12日には知多自動車を含む8事業者が合併して知多乗合株式会社(通称は知多バス)が設立され、内田佐七が社長に就任した[3]

鉄道

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1961年(昭和36年)以前の内海町時代に鉄道路線や鉄道駅は存在しなかった。1980年(昭和55年)には名鉄知多新線が開業し、内海地区には内海駅が開設された。

教育

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  • 愛知県立内海高等学校
    前身は1939年(昭和14年)開校の内海町立内海高等裁縫女学校であり、1949年(昭和24年)に愛知県立半田高等学校内海分校となったのち、1957年(昭和32年)に愛知県立内海高等学校として独立した[2]。1980年(昭和55年)から三河湾に浮かぶ日間賀島篠島に分校が存在したが、2001年(平成13年)には日間賀島分校が、2004年(平成16年)には篠島分校が閉校した。
  • 内海町立内海中学校(現・南知多町立内海中学校
    1947年(昭和22年)に内海町立内海中学校として開校[4]。1948年(昭和23年)には字柴井に校舎が落成したが、1951年(昭和26年)には字西浜田に校舎が落成して移転している[4]。1959年の伊勢湾台風では大きな被害を受けた[4]。1961年(昭和36年)には自治体合併により南知多町立内海中学校に改称[4]。1964年(昭和39年)には新校舎が竣工した[4]
  • 内海町立内海小学校(現・南知多町立内海小学校
  • 内海町立山海小学校(後の南知多町立山海小学校
    1872年(明治5年)に久村郷校として創立され、1873年(明治6年)に瑞邦小学校に改称した後、1886年(明治19年)には山海尋常小学校に改称した。1947年(昭和22年)には内海町立山海小学校に改称し、1961年(昭和36年)には自治体合併により南知多町立山海小学校に改称した。山海小学校は2009年(平成21年)3月に閉校し、内海小学校に統合された。

名所・旧跡

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娯楽

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南知多町となった後の1982年(昭和57年)にはテーマパークとして内海フォレストパークが開園し、ロープウェーの内海ゴンドラも設置された。内海フォレストパークは2003年(平成15年)に廃止されている。類似のテーマパークとしては南知多グリーンバレイもある。また、南知多町になってから開湯した温泉街として内海温泉がある。

海水浴

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  • 内海海水浴場
    浜の長さは約2,000m。奥行きは約80m[5]東海地方最大の海水浴場であり、メインの砂浜である千鳥ヶ浜は「日本の渚百選」に選ばれている[5]
  • 山海海水浴場
    浜の長さは約2,000m。奥行きは約50m[5]。砂浜の中央部には3匹のイルカの塔「ドルフィンタワー」がそびえている[5]

映画館

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  • 京映会館
    昭和30年代の映画黄金期、内海町には映画館の京映会館があった。1960年(昭和35年)の内海町周辺には京映会館のほかに、豊浜町に豊浜座が、師崎町に師崎映画劇場が、篠島村にあかつき映画劇場と大利根館があった[注 1]

出身者

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脚注

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注釈

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  1. ^ 1960年の映画館(東海地方)「消えた映画館の記憶」を参照した[6]

出典

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  1. ^ 愛知県総務部統計課 1951年10月刊行
  2. ^ a b c d e f g 中日新聞社開発局『愛知百科事典』中日新聞本社、1977年、p.152
  3. ^ a b c 中日新聞社開発局『愛知百科事典』中日新聞本社、1977年、p.491
  4. ^ a b c d e 内海中学校 沿革史
  5. ^ a b c d 内海海水浴場 ふらっと南知多
  6. ^ 『映画年鑑 戦後編 別冊 全国映画館録 1960』日本図書センター、1999年。
  7. ^ 梅原猛先生について 南知多町

関連項目

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