内社川鉄橋
内社川鉄橋(鯉魚潭橋) Neishechuan Iron Bridge (Liyutan Bridge)[1] | |
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中華民国 文化資産 | |
登録名称 | 臺鐵舊山線─內社川鐵橋 |
その他の呼称 | 鯉魚潭橋 |
種類 | 橋梁 |
等級 | 苗栗県県定古蹟 |
文化資産登録 公告時期 | 2019年5月8日[2] |
位置 | 中華民国(台湾) 苗栗県三義郷鯉魚潭村 |
建設年代 | 昭和13年(1938年:2代目) |
内社川鉄橋周辺図[3](p72-73) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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内社川鉄橋 | |
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基本情報 | |
国 | 台湾 |
交差物件 | 景山渓 |
用途 | 鉄道 |
路線名 | 台湾鉄路管理局旧山線 |
管理者 | 台湾総督府交通局鉄道部→台湾鉄路管理局 |
設計者 | 坂本敏一(総督府交通局鉄道部) |
着工 | 1904年10月[2] |
竣工 | 1907年10月30日 |
開通 | 1908年2月20日 |
閉鎖 | 1998年9月24日 |
座標 | 北緯24度20分24.6秒 東経120度45分59.2秒 / 北緯24.340167度 東経120.766444度 |
構造諸元 | |
形式 | 上路式ワーレントラス橋 |
材料 | 鋼橋 |
全長 | 185.6メートル (609 ft)[4](pp323-324) |
高さ | 34.7メートル |
地図 | |
関連項目 | |
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内社川鉄橋(ないしゃがわてっきょう)または鯉魚潭橋(りぎょたんきょう)は台湾苗栗県三義郷鯉魚潭村を流れる大安渓水系景山渓の鯉魚潭水庫後池堰にかかる台湾鉄路管理局旧山線(廃線)の鉄橋。内社は現在の鯉魚潭村を指し、平埔族(台湾原住民)のパゼッヘ族がこの地に移住する前に築いていた集落『岸裡社』(現・台中市神岡区大社里、岸裡里一帯)の俗称の一つで、 『大社』に対して当地が内陸にあることから『内社』と呼ばれるようになった[5]。漢族によってその後『番仔城』と呼ばれるようになり[6]、その後鯉魚潭となった。
別名の鯉魚潭は影山渓上流、戦後に建設された鯉魚潭水庫に由来する[7]。
構造
[編集]旧山線6号トンネルと7号トンネルの間に位置する。1904年に総工費209,653円を投じて建設された[4](p280)。 最初期は橋脚8本と桁9本(スパンは北端が63フィート、南端が83.7フィート、中間部は66フィート)で構成され全長は608.7フィート(184.5メートル)だった[8](pp199-201)。桁はアメリカン・ブリッジ製もので[9]、上路式9連続ガーダー橋だった[10][11]。橋脚は当時のセメント技術の不足を考慮し、日本の地震学者大森房吉の耐震指導のもとで橋脚中心部に鉄筋を補強する工法が採用された[7]。
新竹・台中地震により初代橋梁は被災したため古い橋脚の間に鉄筋コンクリートの橋脚を新設し、新しい橋を架けることになり1938年(昭和13年)に完了した。 再建のためにまず旧橋の軌道を仮復旧し、列車で資材を搬入した。既存の8本の橋脚間に4本の新しい鉄筋コンクリート製橋脚を築き橋桁を設置した[4](p324)。
川崎車輛製(昭和十三年(1938年))の桁長は39メートルの鋼材を用いて[12]、垂直材のある上路式4連平行弦ワーレントラスと生まれ変わった[4](p302)。 この時点での数値は全長185.6メートルで橋面の高さは水面から34.7メートルとなった[13][4](pp323-324) 戦前のものとしては台湾で唯一現存する上路式トラス橋[7]。
古い桁は再建工事完了後に撤去された。新橋は総督府交通局鉄道部の技師だった坂本敏一が設計を担った[2][注釈 1][14][15]。
1976年、台中線電化対応のため最南端の支承部分を23センチ下げるとともに、枕木の厚みを調整する工事が行われた[10]。
魚藤坪鉄橋とともに戦前の復旧時点で耐震化が進んでいたことで、戦後に桁が国産鋼材に置き換えられた大安渓鉄橋(県市定古蹟)や大甲渓鉄橋(歴史建築)と異なり重軌道化や電化工事の際も小幅な改修にとどまったことで戦前の姿をほぼ残しており[7]、台湾で現存する唯一の戦前製かつ上路式のデッキトラス橋となっており、先んじて文化資産に登録されたそれらに比しても、価値が見劣りすることはないという意見から2019年に県定古蹟に指定された。
1998年の「新山線」開通後は廃止されたが、その後インスタグラマーが多数押し寄せるほど観光地として注目されたため、訪問者が軌道から鯉魚国民小学裏手へショートカットし騒動となる事案が相次いだ[16]。そのため橋上の軌道内に立ち入れないよう柵が設置されている[17]。2018年に試験営業を、2019年7月から正式営業を開始した旧山線レールバイクでは当鉄橋を渡ることはできないが、手前の6号トンネルまで軌道跡を辿ってアクセスできる。
明治期竣工の初代 | 後池堰生態公園から見える鉄橋 | 鉄橋橫には上水道管の橋も並行する。 |
沿革
[編集][3](p67-69) この区間に限らないが、縦貫線は資材を全て日本から搬入したため、打狗港に近い南部と、基隆港に近く、清朝の軌道インフラを流用できた北部は比較的早く開通した。最も難易度が高かったのは現在の旧山線を含む苗栗と豊原の間だった。工事は総督府臨時台湾鉄道敷設部工務課三叉河出張所(所長:稲垣兵太郎)が担当した。三叉河(現・三義駅)と葫蘆墩(現・豊原駅)間に軍事速成線として軽便鉄道と資材運搬線が先に建設されることになり、それらを用いて日本から持ち込まれた資材が搬入された。 軽便鉄道は9kgレール、軌間495mmの複線で[4](p275)、内社川と大安渓北岸までの支線があった[4](p276)。
戦前
[編集]- 1904年(明治37年)
- 1905年(明治38年)5月15日 - 三叉河以南の軽便鉄道と後里庄以南の縦貫線営業開始[4](p284)。
- 1907年(明治40年)10月30日 - 竣工[4](p280)。
- 1908年(明治41年)4月20日 - 縦貫線全通。軽便鉄道撤去[4](p276)。
- 1935年(昭和10年)4月21日 - 新竹・台中地震で全線が被害。当鉄橋も橋脚が損傷[4](p300)。
- 1938年(昭和13年)7月15日 - 当鉄橋および旧山線全線復旧[4](p300)。
戦後
[編集]廃止後
[編集]2010年の鉄路節で蒸気機関車がリバイバル運転されたのを皮切りに2016年ごろまでは臨時特別列車が運行されていた[注釈 2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 《TAIPEI TIMES》 Trespassers on picturesque Neishechuan bridge in Miaoli could be fined: police”. Taipei Times/自由時報 (2018年8月28日). 2019年6月30日閲覧。 “
- ^ a b c d 臺鐵舊山線─內社川鐵橋 文化部文化資産局 国家文化資産網
- ^ a b 台湾総督府鉄道部 (1911-12). 台湾鉄道史. 下. 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 三義鄉誌下冊(舊山線) 舊山線鐵路史話 縱覽三義篇 之肆”. 三義鄉公所. pp. 265-392 (2018年10月28日). 2019年6月1日閲覧。 “
- ^ 三義鄉人文風情”. 苗栗縣政府環境保護局 (2016年8月4日). 2019年7月6日閲覧。 “
- ^ 苗栗地名的故事”. 民報. 2019年7月6日閲覧。 李筱峰 (2017年3月8日). “
- ^ a b c d 正視舊山線經典大鐵橋文資價值”. 社團法人台灣交通文化資產保存學會 (2018年4月9日). 2019年6月30日閲覧。 “
- ^ 台湾総督府鉄道部 (1911-12). 台湾鉄道史. 中. 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ “PDF版 橋の情報と資料 リンク目録>海外の橋の資料>F7東アジア圏” (PDF). 中日本建設コンサルタント (2017年4月). 2019年6月30日閲覧。
- ^ a b 尋找山線:臺鐵舊山線三義至后里段沿革篇. 苗栗縣文化局. p. 127. ISBN 9570158069 国家図書館 財團法人觀樹基金會,財團法人台灣大學建築與城鄉發展基金會 (2003-12).
- ^ Cable Stayed Bridge”. SEAIASI(South East Asia Iron and Steel Institute/東南アジア鉄鋼協会). p. 9. 2019年7月6日閲覧。 張英發 TEO ENG HUAT (2018年11月27日). “
- ^ a b “內社川橋的故事”. 源 Yuan (台湾綜合研究院) (第33期): pp49-50 . 魏志宏 (2001-05-01).
- ^ 在地生活-舊山線鐵路史話
- ^ 昭和十八年‧交通局鐵道部”. 臺灣總督府職員錄系統. 2019年6月30日閲覧。 中央研究院台湾史研究所 “
- ^ 件名:畠山長作外二名(內閣)” (1932年12月19日). 2019年6月30日閲覧。 国史館台湾文献館 “
- ^ 〈北部〉神隱少女秘境瘋 鯉魚國小立牌禁入”. 自由時報 (2016年11月7日). 2019年6月30日閲覧。 “
- ^ “IG熱點遊客學壞 硬闖舊山線內社川橋”. TVBS. (2018年6月23日)
- ^ a b 舊山線簡介 台湾鉄路管理局台中運務段
- ^ “見證地震的遺蹟 龍騰斷橋”. 地質 (中華民国経済部中央地質調査所) (第33期第3巻 抽絲剝繭 看歷史地震): p.82. ISSN 0303092-X 2019年6月30日閲覧。. 江婉綺 (2014-09).
- ^ “日本時代に建設の旧山線、一部区間が復活か 「100%支持」=交通相”. フォーカス台湾 (2017年12月15日). 2019年6月30日閲覧。
- ^ “舊山線魚藤坪、內社川鐵橋 苗縣指定古蹟”. 自由時報. (2019年3月16日)
- ^ 苗栗縣政府審議通過「苑裡公有零售市場」、「魚藤坪鐵橋」、「內社川鐵橋」等7項有形文化資產 有形文化資產再添7件 保留苗栗在地特色歷史紋理 2019年3月11日 苗栗県政府
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 內社川鐵橋 美美網
- Neishechuan Iron Bridge 漫遊三義 舊山線休閒農業區推動發展協會