内藤忠清
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 永禄元年(1558年) |
死没 | 慶長19年(1614年) |
別名 | 金左衛門 |
戒名 | 了意 |
墓所 | 小石川無量院 |
幕府 | 江戸幕府普請奉行 |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 内藤氏 |
父母 | 内藤忠村 |
兄弟 | 忠次、忠清、忠次 |
妻 | 大久保康忠の娘 |
子 | 忠次、市之丞、勝次、溝口半左衛門室、岡田兵部室、小栗吉次室 |
内藤 忠清(ないとう ただきよ)は、戦国時代の武将。徳川氏の家臣。
生涯
[編集]徳川氏譜代の内藤氏の一族。叔父に内藤正成、大伯父に内藤清長がいる。最初、徳川家康の小姓として仕える。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは敵首級を得る武功を立てた。天正18年(1590年)小田原征伐では使番として従軍した。その後、徳川秀忠付きとなり、石川重次とともに普請奉行に任じられ、また武蔵足立郡・上総長柄郡に2000石を与えられた。慶長13年(1608年)藤堂高虎・松平重勝に従って丹波篠山城の普請を奉行している。
参考文献
[編集]- 「寛政重修諸家譜」巻第810