内藤政醇
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正徳元年(1711年) |
死没 | 寛保元年9月5日(1741年10月14日) |
改名 | 銀一郎(幼名)、政醇 |
別名 | 政令、政盈(別名) |
戒名 | 不退院殿風航致山大居士 |
墓所 | 福島県いわき市常磐白鳥町の龍勝寺 |
官位 | 従五位下播磨守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 陸奥湯長谷藩主 |
氏族 | 内藤氏 |
父母 | 内藤政貞、松平義昌養女 |
兄弟 | 政醇、前田玄長養女 |
妻 | 黒田直邦娘 |
子 | 政業、政勝 |
内藤 政醇(ないとう まさあつ)は、江戸時代中期の大名。陸奥国湯長谷藩4代藩主。官位は従五位下・播磨守。
略歴
[編集]正徳元年(1711年)、3代藩主・内藤政貞の長男として誕生。
享保7年(1722年)、父の死去により跡を継ぎ、享保10年(1725年)に8代将軍・徳川吉宗に御目見する。
享保12年(1727年)12月に叙任する。
「忠孝・倹約・扶助」を旨とする藩法を定めた[1]。
寛保元年9月5日(1741年10月14日)、帰国直後に死去した。享年31。跡を長男・政業が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 黒田直邦の娘
子女
脚注
[編集]- ^ “あぶくま抄(3月27日)”. 福島民報 (2014年3月27日). 2014年6月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月23日閲覧。