内藤政敏
表示
時代 | 江戸時代後期 |
---|---|
生誕 | 天保14年8月1日(1843年8月25日) |
死没 | 文久3年6月27日(1863年8月11日) |
改名 | 静若、勝之丞 |
戒名 | 勇光院徹誉常倫超山 |
墓所 | 神奈川県鎌倉市の光明寺 |
官位 | 従五位下因幡守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂 |
藩 | 陸奥湯長谷藩主 |
氏族 | 内藤氏 |
父母 |
内藤政又 内藤政恒 |
兄弟 | 政敏、増子、牧野忠泰継々室 |
子 | 政養 |
内藤 政敏(ないとう まさとし)は、江戸時代後期の大名。陸奥国湯長谷藩12代藩主。官位は従五位下・因幡守。
略歴
[編集]天保14年(1843年)、内藤政又(三河国挙母藩主・内藤政成の子)の長男として誕生。安政6年(1859年)、11代藩主・内藤政恒が死去したため、同年12月28日にその養子として跡を継いだ。文久2年(1862年)9月28日、従五位下因幡守に叙任する。
文久3年(1863年)6月27日に死去した。享年21。政恒の実子・政養が跡を継いだ。
系譜
[編集]父母
養子