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分部光邦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
分部光邦
時代 江戸時代後期
生誕 天明6年6月3日1786年6月28日
死没 文化7年9月22日1810年10月20日
別名 武吉[1]、米吉(通称)[2]
戒名 霊感院殿賢厳道哲大居士
墓所 滋賀県高島市大溝の円光寺
東京都港区赤坂の種徳寺
官位 従五位下若狭守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
近江大溝藩
氏族 分部氏
父母 分部光実
兄弟 光弘光邦、唯之助、溝口勝匡
池田長溥小出英筠継室、
田沼意留継室、安部信操正室、
森川俊知継室、長岡義之室、
高力某養女、久留某養女
戸田忠翰娘・栄寿院
光寧
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分部 光邦(わけべ みつくに)は、江戸時代後期の大名近江国大溝藩9代藩主。分部家10代。官位従五位下若狭守

生涯

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天明6年(1786年)6月3日[2]、8代藩主・分部光実の次男として[2]誕生。母は側室の小沢氏[1]

寛政9年(1797年)9月5日に兄・光弘が死去したため[1]、寛政10年(1798年)4月27日に嫡子とされた[1]享和2年(1802年)11月15日、11代将軍・徳川家斉に拝謁する。

文化5年(1808年)6月15日、父の死去により跡を継ぐ。同年12月11日、従五位下若狭守に叙任する。文化6年(1809年)に大坂加番役を務めた[2]

文化7年(1810年)8月に幕命により江戸に出府した。同年9月27日に急死[2][3]。享年25[2]。このため長男・光寧が2歳で跡を継いだ[3]

系譜

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父母

正室

子女

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.8、『新訂寛政重修諸家譜 7』p.8。
  2. ^ a b c d e f 分部光邦”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2022年1月7日閲覧。
  3. ^ a b 分部光寧”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2022年1月7日閲覧。

外部リンク

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