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分部光庸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
分部光庸
時代 江戸時代中期
生誕 元文2年11月29日1737年12月20日
死没 寛政2年8月26日1790年10月4日
別名 甚三郎[1]、隼人[1]、静好(致仕号)[1]
戒名 自徳院殿静好義正大居士[1]
墓所 東京都港区赤坂の種徳寺塔頭の松渓院
官位 従五位下隼人正若狭守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
近江大溝藩
氏族 分部氏
父母 分部光命、今村氏
兄弟 光庸三淵澄鮮三淵澄盈施薬院宗顕中條康永命誠松平堅房正室、
角倉玄寿室、長岡栄之室、恒川忠栄
大関増興
黒川氏
光実誠照寺庸行秋山清章庸久
安部信亨正室、高木貞固室、
高木貞固後室、花房職喬継室
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分部 光庸(わけべ みつつね)は、江戸時代中期の大名近江国大溝藩7代藩主。分部家8代。官位従五位下隼人正若狭守

生涯

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元文2年(1737年)11月29日[2]、6代藩主・分部光命の長男として[1][2]、大溝において誕生[1]。『寛政重修諸家譜』では享保19年(1734年)生まれと記している[1]官年参照)。

寛延3年(1750年)6月1日、徳川家重御目見[1]宝暦4年(1754年)9月7日、父・光命の隠居により跡を継ぎ[1]、同年12月18日に従五位下隼人正に叙任[1]。宝暦5年(1755年)4月15日、はじめて領国入りするための暇を与えられる[1]。現存する大溝陣屋の総門は、宝暦5年(1755年)に建設されたものである[3]

女院使接待役、勅使接待役など公家の接待役などを務めた。

安永元年(1772年)5月22日、若狭守に遷る[1]天明5年(1785年)3月10日、長男・光実に家督を譲って隠居[1]。隠居号として静好を称した[1]

寛政2年(1790年)8月26日死去[2][1]、享年54[2]。『寛政重修諸家譜』では享年57とする[1]。赤坂種徳寺塔頭の松渓院に葬られた[1][注釈 1]

系譜

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特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[1]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。

脚注

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注釈

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  1. ^ 大溝の円光寺にある分部家歴代の墓所には、初代分部光信と光庸の墓がない。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.8、『新訂寛政重修諸家譜 7』p.8。
  2. ^ a b c d 分部光庸”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2022年1月5日閲覧。
  3. ^ 2019年大溝400年すごろく」『広報たかしま』2019年1月、16-17頁、2022年1月7日閲覧 [信頼性要検証]

参考文献

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外部リンク

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