分部光庸
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元文2年11月29日(1737年12月20日) |
死没 | 寛政2年8月26日(1790年10月4日) |
別名 | 甚三郎[1]、隼人[1]、静好(致仕号)[1] |
戒名 | 自徳院殿静好義正大居士[1] |
墓所 | 東京都港区赤坂の種徳寺塔頭の松渓院 |
官位 | 従五位下隼人正、若狭守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重、家治 |
藩 | 近江大溝藩主 |
氏族 | 分部氏 |
父母 | 分部光命、今村氏 |
兄弟 |
光庸、三淵澄鮮、三淵澄盈、施薬院宗顕、中條康永、命誠、松平堅房正室、 角倉玄寿室、長岡栄之室、恒川忠栄室 |
妻 |
大関増興娘 黒川氏 |
子 |
光実、誠照寺庸行、秋山清章、庸久、 安部信亨正室、高木貞固室、 高木貞固後室、花房職喬継室 |
分部 光庸(わけべ みつつね)は、江戸時代中期の大名。近江国大溝藩7代藩主。分部家8代。官位は従五位下・隼人正、若狭守。
生涯
[編集]元文2年(1737年)11月29日[2]、6代藩主・分部光命の長男として[1][2]、大溝において誕生[1]。『寛政重修諸家譜』では享保19年(1734年)生まれと記している[1](官年参照)。
寛延3年(1750年)6月1日、徳川家重に御目見[1]。宝暦4年(1754年)9月7日、父・光命の隠居により跡を継ぎ[1]、同年12月18日に従五位下隼人正に叙任[1]。宝暦5年(1755年)4月15日、はじめて領国入りするための暇を与えられる[1]。現存する大溝陣屋の総門は、宝暦5年(1755年)に建設されたものである[3]。
女院使接待役、勅使接待役など公家の接待役などを務めた。
安永元年(1772年)5月22日、若狭守に遷る[1]。天明5年(1785年)3月10日、長男・光実に家督を譲って隠居[1]。隠居号として静好を称した[1]。
寛政2年(1790年)8月26日死去[2][1]、享年54[2]。『寛政重修諸家譜』では享年57とする[1]。赤坂種徳寺塔頭の松渓院に葬られた[1][注釈 1]
系譜
[編集]特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[1]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二
- 『寛政重修諸家譜 第三輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082714/13