安部信亨
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦8年(1758年) |
死没 | 文政5年6月17日(1822年8月3日) |
改名 | 弥一郎(幼名)、信亨 |
別名 | 丹波入道(隠居後) |
戒名 | 来震院灌渓道関 |
墓所 | 埼玉県深谷市の源勝院 |
官位 | 従五位下丹波守、采女正、摂津守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
藩 | 武蔵岡部藩主 |
氏族 | 安部氏 |
父母 | 父:安部信允、母:有馬一準娘 |
兄弟 |
信亨、日向正房、稲葉通碩、井上正清、 柳沢里之正室、石川正勲正室、 松平康休正室、安部信盈養女、 安部信旨養女、安部信富養女 |
妻 | 正室:分部光庸娘 |
子 |
弥一郎、金弥、信操、信孝、信順、 山本昌義、酒井忠賢室、安部信規室、 井上正質養女、村瀬重候養女、増山正寧正室 |
安部 信亨(あんべ のぶみち)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。武蔵国岡部藩8代藩主。官位は従五位下・丹波守、采女正、摂津守。
生涯
[編集]宝暦8年(1758年)、7代藩主・安部信允の長男として誕生。安永4年(1775年)閏12月に従五位下・丹波守に叙位・任官する。天明元年(1781年)9月に采女正に遷任し、9月11日の父の隠居で家督を継ぎ、摂津守に遷任する。
寛政7年(1795年)4月から文化元年(1804年)まで大坂定番を務めた。文化3年(1806年)8月5日、病気を理由に家督を三男・信操に譲って隠居し、剃髪して丹波入道と号した。文政5年(1822年)6月17日、江戸で死去した。享年65。
系譜
[編集]父母
正室
- 分部光庸の娘
子女
外部リンク
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第三百五十四
- 『寛政重修諸家譜 第二輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082719/500
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus『安部信亨』 - コトバンク