森川俊知
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 安永8年3月8日(1779年4月24日) |
死没 | 天保9年8月9日(1838年9月27日) |
改名 | 俊敏(としまさ、初名)→俊知 |
戒名 | 徳隣院謙忠宗恭 |
墓所 | 千葉県千葉市中央区の重俊院 |
官位 | 従五位下、兵部少輔、紀伊守、内膳正 |
幕府 | 江戸幕府 大番頭・奏者番・若年寄 |
藩 | 下総生実藩主 |
氏族 | 森川氏 |
父母 |
父:森川俊輝、母:森川俊顕娘 養父:森川俊孝 |
妻 |
正室:青山幸完娘・勝 継室:分部光実娘 |
子 |
養子:俊一、俊民 登志(森川俊民正室) |
森川 俊知(もりかわ としとも)は、下総生実藩の第8代藩主。江戸幕府の若年寄である。
生涯
[編集]安永8年(1779年)3月8日、第6代藩主・森川俊令の次男で、第7代藩主・森川俊孝の弟である森川俊輝の長男として、外祖父の森川俊顕の屋敷で生まれる。天明8年(1788年)に俊孝の実子である俊盛と俊孝が相次いで死去したため、俊孝の末期養子として家督を継いだ。
寛政8年(1796年)12月19日に従五位下・兵部少輔に叙位・任官する。寛政10年(1798年)4月3日に日光祭祀奉行に任じられ、文化3年(1806年)11月8日に大番頭に任じられた。その後も大坂城番・二条城番などを務め、文化13年(1816年)12月26日に奏者番に任じられ、文政5年(1822年)8月15日には西の丸若年寄に任じられた。その後は幕政に参与し、第12代将軍・徳川家慶の五男・一橋慶昌の養子縁組交渉や、第11代将軍・徳川家斉の娘の婚儀の交渉・庶務などをまとめ上げた。そのために家斉や家慶からは信任が厚く、後に俊知が若年寄の辞職を求めても許されなかった。
天保9年(1838年)8月9日に死去した。享年60。
初め俊一を養子としていたが早世。次に養子にした俊民が家督を継いだ。
系譜
[編集]父母
正室、継室
子女
- 登志(長女) ー 森川俊民正室
養子