利用者‐会話:マニアな人

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

「藤井聡太」の編集について[編集]

標記の記事についての貴殿の編集(差分)を拝見しました。

一つの段落が複数の文で構成されている場合に、どのように注釈を付するかについては、先行議論「Wikipedia:井戸端/subj/脚注リンクの配置位置について」がありますのでご参照ください。貴殿の編集結果ですと、2つの文章が無出典となってしまい、不適切な状態となります。

そのため、貴殿の編集を差し戻しましたので、お知らせします。--Pooh456会話2018年11月17日 (土) 07:12 (UTC)[返信]

リンク先はあまりに長文すぎるので、いちいち全部を見ることはしません。しかし、考え方がおかしいようにも思えます。該当箇所が離れていれば、個別に注釈を入れるべきでしょうが、同じ段落内で完全に隣接して説明している場合には、いちいち注釈を個別に入れる必要ないと思われます。なぜなら、引用先のページで確認ができるからです。むろん、引用したものが書籍で、それぞれの内容が、ページがかけ離れているのであれば話は別ですが……。--マニアな人会話2018年11月17日 (土) 16:01 (UTC)[返信]
繰り返しになりますが、あなたの編集結果では、段落の最後の文だけが有出典、他の文は無出典、となってしまいます。WP:Vには「情報源が明らかでない内容は、異議を述べて取り除くことができます。」と示されておりますので、除去されても仕方ない状態となります。
ウィキペディアのルールに従って付されている出典表示を、あなたの私見を根拠に取り除くような編集は今後はお止め下さい。
出典のつけ方についてご意見があるのは承りました。Wikipedia:井戸端で議論を提起し、多数の方の賛同を得ればそれが先行議論となりますので、申し添えます。--Pooh456会話2018年11月17日 (土) 16:25 (UTC)[返信]
ざっと見る限りでも「結論の出ていない議論」を元に、勝手に人の意見を私見などと呼ぶ時点で、主観的な方なんだと分かります。Wikipediaは、ルールを自分の都合のいいように利用される方が、本当に多くて困ります。そもそも井戸端は「質問する場所」であって、ルール作成の場ではありませんし、一つの議論=最終決定ではありません。誤解なきように。--マニアな人会話2018年11月18日 (日) 19:26 (UTC)[返信]
既に示した井戸端での先行議論を元に、「Help‐ノート:脚注/過去ログ2#『脚注リンクは句点(。)の後でなく前に置きます。』の補完」での改めての議論の結果、「Help:脚注#スタイルと用法」に反映されております。ですので「結論が出ていない議論」というあなたの認識は誤りです。--Pooh456会話2018年11月19日 (月) 08:41 (UTC)[返信]
はい、ブーメラン論破。「逐一これらを本文中に記載しようとすると文章が煩雑になりがちです。」と記載していますね。一文ごとに出典を記載するのは、明らかに過剰であると思います。少なくとも、Wikipedia上において段落内での文章で、かつ出典先も1~2ページ内で確認できるのであれば、1文ごとに出典・脚注を入れるのは過剰すぎます。
おそらく、「一文ごとに脚注リンクを挿入したり、本文や注釈文に注釈範囲を明示したりするなど配慮してください。」のことをおっしゃっているのでしょうが、これは今回のケースのように、同一の脚注を連続して入れることを想定していないと思われます。でないと、前述の「逐一これらを本文中に記載しようとすると文章が煩雑になりがちです。」の問題を引き起こすからです。ご理解くださいませ。--マニアな人会話2018年11月19日 (月) 20:43 (UTC)[返信]
(1) 「Help:脚注#スタイルと用法」の「ウィキペディアでは記事の信頼性向上のために出典を明記することが推奨されていますが、逐一これらを本文中に記載しようとすると文章が煩雑になりがちです。そのような場合に脚注機能を使うと本文が読みやすくなります。」という文章の結論は「脚注機能を活用して下さい」です。文章を普通に読めば自明のことのはずですが?
(2) WP:INCITEにも同趣旨の記述「できれば、脚注機能(Help:脚注)を使用して、本文の見た目をすっきりとさせる。具体的には、出典を <ref> と </ref> とで囲み、さらに出典を表示させるための「脚注節(セクション)」を本文の最後に作り、そこに {{reflist}} と書く。」とあり、以下、脚注機能(Help:脚注)を使用して、本文中に注釈を挿入する例示が3つ、印刷物・Webサイト(1)・Webサイト(2)として示されております。
(3) あなたのしていることは「誤読」であり「論破」ではありません。--Pooh456会話2018年11月20日 (火) 17:16 (UTC)[返信]
本当にしつこい人ですね……。私はあなたと議論をしたいわけではないのですが…。Wikipediaはいつから議論強制の場になったのでしょう? あなたは他人の貴重な時間を奪っていることを理解していますか?
当然、(1)については理解して書いており、誤読などではありません。脚注であろうと煩雑になることは同様ですし、実際に私は著しく見づらく編集もしづらいと感じています。(2)で書かれたような、とても「スッキリ」した状態とは言えませんし、問題の本質は変わっていません。本来、「誰でも簡単に編集できること」がメリットであるはずのWikiが、あなたのような考え方の人がいるせいで、本来のメリットが損なわれているわけです。
繰り返しになりますが、少なくとも同じ節で (同じ段落内であればなおさら)、引用元ですぐに確認できる内容なのに、一文ごとに引用・注釈を入れる必要性はありません。視認性・編集性を損なう「過剰なタグ」は、引用や脚注に限らず、可能なかぎり避けるべきです。少なくとも、他人に強制することはおやめください。(むろん、Wikiでの節や段落が異なっている場合や、引用元の内容が別ページにあるなどして確認が取りにくい場合などには、この限りではありません。)--マニアな人会話2018年11月21日 (水) 01:34 (UTC)[返信]

(インデント戻します)

コメント依頼[編集]

報告 議論が平行線となっておりますため、「合意形成のためのコメント依頼」を行いました(差分)。--Pooh456会話2018年11月21日 (水) 01:52 (UTC)[返信]

この方の持論は、「Wikipedia:脚注過剰」(不必要な繰り返し)に当たります。一つの脚注で済むことなのに、繰り返し過剰な「脚注タグ」を付けることは視認性・編集性を悪くし、編集ミスを誘発したり編集を躊躇させますし、新規ユーザーを排除することに繋がりますので、出来る限り慎むべきです。--マニアな人会話2018年11月21日 (水) 03:02 (UTC)[返信]

また、 Help:脚注#スタイルと用法にある通り、出典はその内容が裏付けとなっている文章の句点の直前に配置するのが通常です。一つの出典が同じ段落内の連続した​​文章の裏付けとなる場合、最後の文の終わりに、その引用を一つ置くのが適切です。連続する文章のそれぞれに個々に引用を示す必要はなく、これはやり過ぎです。ただしリストや表であれば話は別です。また複数の出典があり、それらが裏付けとなる部分の段落または文章が異なる場合にも適用されません。

コメントWikipedia:脚注過剰」は、「Wikipedia:私論」ですので、ノートでの議論で論拠として提示すべきではありません。--Pooh456会話2018年11月21日 (水) 07:55 (UTC)[返信]
コメントWikipedia:法律家ごっこ」はおやめください。あなたが持ち出したHelp:脚注#スタイルと用法にある通り」とあるのですから、私論の問題ではありません。そもそも、「井戸端の議論」というルールになっていない私論を論拠に持ち出したのは、あなたのほうでしょう?
仮に私論のページであっても、井戸端の議論などよりはるかに尊重して扱うべきであり、その内容に異論があるなら「Wikipedia:脚注過剰」において議論をして改変すべきでしょう。--マニアな人会話2018年11月21日 (水) 09:53 (UTC)[返信]
  • コメント コメント依頼より来ました。Pooh456様に賛同します。「これはやり過ぎです。」は、「記述1。記述2。記述3。[出典A]」(ケース1)を「記述1[出典A]。記述2[出典A]。記述3[出典A]。」(ケース2)にする必要はないと言っているだけであり、「記述1。記述2。記述3[出典A]。」(ケース3)が良いとは言っていません(最初のケースとの違いに注意)。ケース3の場合、第3者が「記述1。記述2。記述4[出典B]。記述3[出典A]。」とする可能性があります。そうなると、記述1と2の出典がわからなくなります。いや、それ以前に記述1と2が無出典で除去される可能性もあります。なお、ケース1の場合でも、同様の加筆を行うと「記述1。記述2。[出典A]記述4[出典B]。記述3[出典A]。」か「記述1[出典A]。記述2[出典A]。記述4[出典B]。記述3[出典A]。」になりますが、出典Aの範囲がどこまでがわからないため、加筆者は出典Aを見る必要があります。なお、「記述1、記述2、記述3[出典A]。」や「記述4[出典B]、記述3[出典A]。」はアリです(前者は長くて読みづらくないようにし、後者は出典の合成にならないように気をつける必要がありますが)。--JapaneseA会話2018年11月21日 (水) 07:50 (UTC)[返信]
それは、あなたの読解力に問題があります。文章の流れは「必要がない」にかかっているのではなく、明確に「これはやり過ぎです。」と明言しています。
『記述1と2の出典がわからなくなります』は、まさしく「文章ごとに出典を入れないといけないと思いこんでいる過剰ユーザー」の考え方であり、弊害と言えるものです。文章の流れや意味を理解していれば、段落の最後のみで問題ない場合が大半です。むろん、なにごとにも例外はあります。その例外を持ち出して、すべてに過剰脚注を行うことは避けるべきでしょう。
また、「読点の場合にはOK」という考え方はおかしいでしょう。接続詞を使うなど日本語しだいで、句点をなくして読点で文章をつなげる方法はたくさんあります。今回のケースのように、同じ内容が記述されていることを容易に推察されるケースにまで出典タグ・脚注タグが必要になるなら、句読点ごとにタグを挿入しなくてはならなくなります。--マニアな人会話2018年11月21日 (水) 10:47 (UTC)[返信]
読解力に問題があるのは貴方です。いや、この私論の主旨を理解していない、と言った方が良いでしょう。この私論で言っているのは、加筆されるような事がないと想定できるような場合にまで、厳密にケース2にするのは過剰だと言っているのでしょう。藤井聡太#幼少時代節には、他の出典からの記述もあり、加筆される可能性はあると判断します(1行目は3文全て出典A。2行目の1文目は出典Aで2文目は出典B)。ただし、ケース1が良いのかケース2が良いのかは、人によって意見が別れるところであり、どちらが正しいという結論は出ていません(だから方針でもガイドラインでもなく「私論」なのです)。いずれにせよ、貴方がやったのは、ケース1ではなくケース3なので、この時点で改悪以外の何者でもありません。上記私のコメントは、ケース3に対する批判を主題とし、ケース1に対しては私論なので「なお~」と述べています。Help:脚注#スタイルと用法より引用します。「脚注は多くの場合、一つの文を説明対象にします。この場合は、句点(。)の後でなく前に脚注リンクを置きます」「段落全体など、比較的広い範囲の文章に対してひとつの脚注が対応することもあります。そのような場合でも本文と注釈の対応関係が読者や後の編集者にも平易に分かるよう、一文ごとに脚注リンクを挿入したり、本文や注釈文に注釈範囲を明示したりするなど配慮してください。段落全体に対する脚注の注番号が、段落の最後(段落を構成する最後の文の句点の後)に置かれていることもあります[解説 6]。加筆や修正、書式の統一の際には注意してください。」。 1つめの引用は、ケース2が基本と言っています(ケース3にするなとも言っています)。2つめの引用はケース1も許可するが十二分に配慮するようにと言っています。そもそも、自分で新たに加筆する際にケース1とするならまだしも、既存の記述をわざわざケース1に変更する必要などありません。ましてやケース3は明確に禁止されています。なお、「、」毎の脚注に対しては「記述1[出典A]、記述2[出典A]、記述3[出典A]。」のような事は意図していません。--JapaneseA会話2018年11月21日 (水) 15:59 (UTC)[返信]
まったくご理解いただけていないようですが、私は「別の段落については問題ない」と何度も説明していますし、実際にそのように編集(差分)しています。つまり、最初の段落の終わりに1つ、次の段落の最初の文に1つ、それぞれ脚注タグを設置することには私は反対しておりません。しかし現状のように、最初の段落で1文ごとに脚注タグを埋め込むことには、断固として反対させて頂きます。理由については何度も説明しておりますので、省かせていただきます。
あと、他人に文章を読んでもらいたいなら、段落を作って改行するなど、他人に読みやすい文章を心がけてください。見る価値がないと判断しましたので、後半については読みませんでした。当方もそこまで暇ではありませんので、最低限の日本語ルールを満たさない文章は読み飛ばします。あしからず。--マニアな人会話2018年11月21日 (水) 23:02 (UTC)[返信]
頻繁に改行するラノベを読み慣れてるのだと思いますけど、研究書や論文、大百科事典で下記のような書き方は割と普遍的ですよ。オンラインのブリタニカ百科事典辺りをご覧頂くと容易にお分かり頂けるかと思います。--Nami-ja [会話 履歴] 2018年11月22日 (木) 06:41 (UTC)[返信]
ここは研究発表の場でもなければ、論文でもブリタニカでもありません。ラノベも関係ありません。それ以前の「コミュニケーションの問題」です。--マニアな人会話2018年11月22日 (木) 11:29 (UTC)[返信]
*コメント依頼から来ました。マニアな人さんがおっしゃる通り、これは方針やガイドラインの解釈や理解度の問題ではなく、単に「コミュニケーションの問題」だと考えます。「リンク先はあまりに長文すぎるので、いちいち全部を見ることはしません。」「はい、ブーメラン論破。」「本当にしつこい人ですね……。」「それは、あなたの読解力に問題があります。」「見る価値がないと判断しましたので、後半については読みませんでした。当方もそこまで暇ではありませんので、最低限の日本語ルールを満たさない文章は読み飛ばします。」などと言っている人とは、まともなコミュニケーションが成立するはずがありません。jawpでの編集活動の基本である他の利用者との合意が形成されることなど決してないでしょう。マニアな人さんは議論の前に、Wikipedia:礼儀を忘れないWikipedia:善意にとるを熟読することをお勧めします。--Xx kyousuke xx会話2018年11月22日 (木) 12:21 (UTC)[返信]
そもそも誤解があるようですが、私には議論をする「義務」などありません。仕事でもありませんし、お金をもらえるわけでもありません。貴重な時間を浪費して、改行もしない読みにくい長文を読まされたり、過去の議論の履歴を20~30分かけて延々と読まないと、議論には参加できないのですか? 
10行以上にわたる段落は、改行し忘れていることを除けば、多くの場合「内容がまとまっていない煩雑な文章」です。これが例えば会話であるなら、延々と息継ぎもせずにまくし立てる相手の話を、延々と聞かされる状態です。多くの人なら最初の10秒が限度で、あとは聞き流すのが普通です。文章は目に見えるだけに、なおさら段落・改行空行を心がけるべきでしょう。それが理解できないのであれば、読み飛ばされても仕方ないと思います。私はそれを指摘しているに過ぎません。--マニアな人会話2018年11月22日 (木) 15:44 (UTC)[返信]
コメント 全く理解していないようですが、貴方と「議論」しているつもりなどありません。方針を理解していない初心者に「指摘」しているのです。貴方が何を主張しようがこの編集[1]は、改悪です(ケース1ではなく、やってはいけないケース3にしています)。これがケース1であれば「議論」でしたが、ケース3には「指摘」となります。そしてその「指摘」を見る価値がないと判断して、それを見ないのはどうぞ御自由に。ただし貴方が見ようが見なかろうが、今後警告を無視した編集を行えば方針の不理解、合意に至っていない編集を行えば対話拒否として判断し、今まで通りに対処するだけです。--JapaneseA会話2018年11月22日 (木) 15:56 (UTC)[返信]
議論をする気がないなら、それこそ対話拒否ですね。「指摘」とか自分ルールを言われても理解不能です。なぜ、あなたが勝手に結論を決めつけているのでしょうか? 議論に参加できないのであれば、編集は控えるべきです。--マニアな人会話2018年11月22日 (木) 16:30 (UTC)[返信]
  • コメント マニアの人さんのおっしゃる通りです。議論に参加する義務などありませんが、「議論に参加できないのであれば、編集は控えるべきです。」ここは他人との対話を繰り返し合意を図って編集を進めていく場だからです。この既に2万バイトを超える議論の発端は、何の説明もなしに出典の記載を除去したあなたの編集でした。他の誰かがきっかけを作った訳ではありません。疑義を唱えられた場合は回答せざるを得ないでしょうし、それがすなわちマニアの人さんがおっしゃる「コミュニケーションの問題」ということです。--Xx kyousuke xx会話2018年11月22日 (木) 23:07 (UTC)[返信]
  • コメント コメント依頼より来ました。当該議論の主題そのものが2017年9月に井戸端で提起された「Wikipedia:井戸端/subj/出典の明記について」の焼き直しであろうと感じます。これはケースバイケースで一律にどちらか一方が完全に正しいとする合意がこれまで為されたことはなく、どちら様の言い分にもそれなりの利点・難点がそれぞれ別個に存在するもので個人の会話ページ内の議論で完結できるような簡単な問題ではないことを示しておきます。◆その上で、当方の持論は、どちらの方法でも出典文献そのものを参照すれば判るのであれば究極的には出典参考文献としてまとめ置くのみで良く、それらが文中で交錯することで各文・各数値・各単語の情報源が分かりづらくなる場合に於いて文末部分のみに拘らずそれぞれに脚注出典を示せば良い、とするものでマニアな人さん寄りではありますが、他方、記事中の各文末に出典が明示されている状態が維持されている状況に於いて出典を見れば判るという理由『のみ』でそれらを元の記載から除くことは、まさにPooh456さんの懸念通り「文末出典の有無により記事内の文章信頼性を判断しつつ読んでいる読者に要らぬ誤解を抱かせる」という類推が生まれる余地が発生することでやや不適切かな、と思われ、「どちらでも良いのであれば他者と議論を提起してまで複数文章出典をまとめる必要もまたない」ということで、『匿名編集者同志の解釈の違いで異論が生まれており、その論拠がどちらであっても良いのならば、(どちらが完璧な解釈かといった議論はちょっと脇に置いて頂いて)最も堅実な状態を維持した方が妥当なのではないか』と感じます。──なお個人的なことですが、当方は上述の通り「どちらであっても内容が完全に出典に従っていることが分かれば良い」という考えを持ちますが執筆記事の過半で同情報源であっても徹底的な各文末出典付記を用いています。しかしそれが方針ガイドラインを遵守した出典の付記方法でありそれ以外の方法は認めない、といった考えからではなく「こうすれば出典付記方法に関する議論の余地を限りなく減少できるだろう」という理由に過ぎません。--Nami-ja [会話 履歴] 2018年11月21日 (水) 08:35 (UTC)[返信]


コメント こんなこと言うと、また論点が広がってしまうかもしれないけど、まあ、私の考えをコメントいたします。今回の問題は、過去の事例を引くと、Wikipedia:コメント依頼/柒月例祭とQuark Logoに近いと感じる。ウィキペディアとしては、今回の争点は「どっちでもいい」です。逐次でもパラグラフ単位でも明確には決まってない。究極的には個々人の好みの問題に過ぎません。
その時に、その記述の執筆者でない者が、そういう「どっちでもいい」編集を行うというのは、色々と理屈を述べようとも、とどのつまり、ただ自分の美観を押し付けているだけに過ぎません。マニアな人氏が、今回の揉めている形式の編集を通したいなら、ウィキペディアのガイドラインなりで、それが推奨されていて、それ以外は認められていないと、ルールの変更提案をすべきでしょう。逆に、マニアな人氏のような人がパラグラフ単位で出典を記述したものを、後から来た人間が、逐次的に文に出典がないから不適切だと言い始めるのも、不当だと思います。--EULE会話2018年11月23日 (金) 00:46 (UTC)[返信]