利用者‐会話:牧野幕府

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あなたが実り多き活動をされることを楽しみにしております。--キモチャモ会話/履歴2007年3月15日 (木) 09


能勢氏について[編集]

牧野幕府さん、こんにちは。 能勢氏について、お骨折りとのことお察しいたします。私もだいぶ以前に数度、国立国会図書館等で寛政重修諸家譜を主に能勢氏について調べたことがありますが、三河能勢氏・長岡藩能勢氏先祖について手がかりらしいものは殆ど得られなかったのを記憶しています(摂津能勢氏系統のものばかりでした)。その原因として考えられることに、

  1. 三河能勢氏は牛久保六騎に数えられるが、もとは今橋牧野家の寄騎であったため牛久保衆としての歴史が浅いため、牛久保牧野家とその家臣集団に関連伝承が薄い。
  2. 能勢丹波守自身は牛久保六騎の他の寄騎とともに永禄8年に徳川家康に帰参したされるが、これ関するに同時代史料に乏しく、逆に『明智軍記』に永禄9年に越前敦賀城の足利義昭に伺候の侍衆(公方衆)に細川藤孝・一色藤長らと共に能勢丹波守の名があったとされることから、徳川氏のもとを去った可能性もあり、しかし後に足利公方家・明智家ともに滅亡したためこの辺の詳しい行動記録が伝わらない(『明智軍記』も後世の編集)。
  3. 最後の能勢丹波守の嫡子能勢惣左衛門は駿河大納言徳川忠長卿に仕官した(『長岡の歴史・第1巻』)が、徳川忠長が改易(のち自害)になったため、忠長家臣の殆どが改易になってしまい、本人もしくは先祖の徳川家への功績大と認定された者のみ直参旗本取立・大名取立があったが例外的措置であり少数であった(松平大隅守など)。能勢氏はこの復活取立が承認されなかったと考えざるを得ない(少なくとも徳川直参旗本・譜代大名にはなっていない)。それ故、「御邑古風談」巻之中に、「兄能勢惣左衛門ハ公儀被召出、…」とあるが、「年代未詳」となっており詳細な経過も伝えられていない。そのためか寛政譜に記載がない。

以上が挙げられます。

しかし、他家の陪臣として低禄で仕官している可能性もあり、摂津能勢氏系統との姻戚も含め未調査史料がある可能性もあり、今後明らかになるかも知れません。とにかく、同じ長岡藩先方家でも固有の異なる素性・歴史をもつのですから真木氏と同じボリュウームがなくとも仕方ありません。これもその家の歴史的側面かもしれません(無理には書けません)。先方家能勢氏の家伝が刊本等で公開される等の進展を期待したいものです。-以上-故城一片之月 2007年3月19日 (月) 17:32 (UTC)[返信]

  • 誤記の訂正:能勢丹波守嫡子の能勢惣左衛門について、徳川忠長卿に仕官は誤りであり、正しくは「公所へ召出候衆」のうち、山本帯刀左衛門次男の山本美濃守(某)が「後、駿州亜相公附衆」と注記されているので、上記の会話書込みのうち該当部を取消しその旨ここに訂正(下線部追加)いたします。これは、出典の今泉省三、『長岡の歴史 第1巻』のpp204-205 掲載の「御邑古風談」巻之中の「公所へ召出候衆」に列記された面々の中で付されている「後、駿州亜相公附衆」の注記を左行のものか右行のものかを取り違えた私の錯誤でした。申し訳ありませんでした。--故城一片之月 2010年6月16日 (水) 14:47 (UTC)[返信]

三河稲垣氏について[編集]

牧野幕府さん、こんばんは。

「享禄元年(1528年)牛久保に吉田方面から軍勢が押し寄せた」との記述ですが、翌享禄2年の合戦以前は牧野信成(田三郎・田蔵左衛門)が吉田城主でした(信成の兄の牧野成三・田左衛門尉とする説もある)。すると、この吉田の軍勢とは牧野信成の兵でしょうか、はたまた松平兵でしょうか(松平兵ならどの様な経緯で吉田からきたのでしょうか)?牧野信成の兵ならば、牛久保・吉田(今橋)の両牧野家が対立、合戦に及んだことになり、興味深いものがあります。是非、そのあたりの見解を教えて下さい。故城一片之月 2007年3月20日 (火) 17:30 (UTC)[返信]

故城一片之月氏に同感です。私も、自分のした記述がおかしいと思っていますが、根拠は下記です。

コピペですが、参考にしてください。

寛政重修諸家譜」巻384、稲垣重賢(しげかた、藤助)伝には、「享禄元年(に)三河国吉田の兵(が)牛久保の辺に出張せるの時、重賢(は)防戦して産女塚(うぶめづか)にを(於)いて討死す。年三十六。法名善心。」/稲川明雄「長岡藩筆頭家老稲垣氏の系譜、稲垣氏の出自と初期の平助家」(「長岡郷土史」23号、1985)からの孫引きですが、「藤原姓稲垣氏家譜禄」の源藤助重賢の項には、「永正年中以来、参河国牧野民部丞平成勝に属す。附属の臣十八名、享禄元戊子(つちのとね)年、参河国吉田之兵が牛窪の近辺を犯した時、産女塚において戦死。行年三十六歳。属臣十六名討死。」/「藩翰譜」所収の稲垣系図には、「源重賢/藤助、三州牛久保(の)住人。先祖(は)勢州(伊勢国、の)住人稲垣三郎重泰より出(ず)。享禄元年三州産女塚に於て戦死。三十六歳。」

ご回答ありがとうございます。
いえ、私は否定的にとらえているのではなく、牛久保牧野家と今橋牧野家は同族ながらも必ずしも同一歩調をとっていなかったのではないかという疑問を以前より持っていたので、この「産女合戦」を興味深いと感じたわけです。 享禄2年及び天文元年の松平清康の今橋(吉田)城攻めの際も牛久保方は積極的に後詰めなり、救援をしたとは到底思えず、牧野田兵衛尉(成敏)の松平方内通も牛久保城主の承認のもとに行われた疑いもあります(牧野田兵衛はのち今橋城主となったが天文6年戸田氏に城を奪われるも再び牛久保衆に復帰している)。もっともこの見方は従来の通説とは大いに異なり、刊本や研究論文集にもないと思いますのでウィキにも掲載できません。故城一片之月 2007年3月21日 (水) 17:36 (UTC)[返信]

こんにちは。牧野幕府さん。「時空の旅人」氏の問題を抱えたウィキ豊です。故城一片之月さんも「コメント依頼」に記入されました。牧野幕府さんも時間を見つけてこの「コメント依頼」に少々書いて頂けると「時空の旅人」氏の問題も解消するかもしれません。よろしくお願いします。--ウィキ豊 2007年3月30日 (金) 05:53 (UTC)[返信]

ウィキ豊です。コメント依頼にご記入下さり有難う御座います。問題が解消するようにしたいものです。--ウィキ豊 2007年4月2日 (月) 02:10 (UTC)[返信]

御案内
こんにちは。本日、利用者:時空の旅人(会話/履歴) 利用者:オタスケマン(会話/履歴)氏への投稿ブロック依頼が提出されたので、お知らせに参りました。Wikipedia:投稿ブロック依頼 2007年4月でご確認していただけるよう御案内いたしますので宜しくお願いいたします。--故城一片之月 2007年4月9日 (月) 12:55 (UTC)[返信]

プレビュー機能のお知らせ[編集]

こんにちは。ウィキペディアへのご寄稿ありがとうございます。牧野幕府さんが同じ記事に対して短時間に連続して投稿されているようでしたので、プレビュー機能のお知らせに参りました。投稿する前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。

投稿時、中央のボタンを押すとプレビューできます。

これを使うことで

などを予めチェックし、修正してから投稿していただくことにより、同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点については同じ記事への連続投稿を減らすに説明がありますので、よろしければお読みください。また、ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますので、あわせてお読みいただけると幸いです。ご理解とご協力をよろしくお願いします。--Calvero 2007年4月19日 (木) 19:40 (UTC)[返信]


稲垣権右衛門の件[編集]

牧野幕府さん、こんにちは。

長岡藩関係等でお世話になっている故城一片之月です。越後長岡藩の家臣団三番家老稲垣太郎左衛門家の記事中の貴方の投稿に関して、掲載妥当性について今泉総一郎さんと話し合っています(現在、該当部分はコメントアウトしております)。現在は非公式協議として故城一片之月の会話ペ-ジで話し合われています。投稿されたご本人様の意見も是非うかがいたく思いますので、どうぞ御足労願えませんか。では、宜しく。--故城一片之月 2008年12月21日 (日) 05:05 (UTC)[返信]


越後長岡藩のノートに意見を書きました。採決も必要かもしれません。主執筆者としてノートの議論に参加をお願いします。--今泉総一郎 2009年12月18日 (金) 20:00 (UTC)[返信]

根岸氏の件[編集]

出典の件はありがとうございました。ひとつ気付いたことがありました。この寛政年間の「松平伯耆守」という人の実名(諱)が判りますでしょうか?「松平伯耆守」は因幡池田氏もしくは「本庄松平氏」のようですが、これらはどうも年代が異なるような気もしますので。--故城一片之月会話2012年6月18日 (月) 14:43 (UTC)[返信]

おっしゃるように、宮津藩主松平伯耆守(宮津藩主)が老中になったから、根岸氏が着座家になったというような説明には無理があるとは、思います。瀧姫の輿入れは、文化6年12月25日です。--牧野幕府会話2012年6月18日 (月) 17:29 (UTC)[返信]

ともあれ、長岡藩側の資料にないお話ですから貴重なものですね(それとも単に私が知らないだけですかね)。--故城一片之月会話2012年6月19日 (火) 11:00 (UTC)[返信]