利用者‐会話:今泉総一郎

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

初めまして[編集]

今泉総一郎様、はじめまして故城一片之月と申します。私のノートへの書き込み見て参上しました。ご挨拶頂き、恐縮です、宜しく御願いいたします。

鉄三郎氏のご紹介と承りました。鉄三郎氏とはウィキペディアの編集活動で親しくお付き合いしていただいておりましたが、今はお話の様子のせいか最近はご無沙汰しております。私もしばらく私事多忙にて、最近少しまた編集しております。

三河松井氏の雑載件、読ませて頂きました。鳥羽藩主稲垣氏家臣の事等は私も余り詳しくないので、勉強になります。今泉様の今後の編集活動を楽しみにしております。それと、よけいかも知れませんが、家臣や特定姓氏の存在数を1戸、2戸等と表示された場合、明治以降の戸籍上の戸口数のように感じられ、私には江戸時代以前は知行・俸禄を伴う名跡(跡式)の概念が適当とおもわれ、1家、2家と表示したほうが宜しいかと思いますが如何なものでしょう。--故城一片之月 2008年9月19日 (金) 17:19 (UTC)[返信]


岩瀬氏の件[編集]

御指摘のとおり、三河の岩瀬氏は説明が難しいのです。永禄年間、大塚城岩瀬氏は岩瀬吉右衛門を通称とした人が居ました(諱名は不詳)。この人物は早期に家康に協力し牛久保牧野氏に徳川方への帰順を呼びかける使者を務めましたが、後に今川方を支持する息子の岩瀬孫三郎(家久)に大塚城内で謀殺されてしまいました。

これとは別に岩瀬吉左衛門を称する系統があり、これは牛久保寄騎(牛久保六騎)の岩瀬氏ですが、鉄三郎氏は永禄年間に岩瀬吉左衛門が存在したかのような書き方でしたので誤解されやすいかもしれません。三河時代のこの系統は私の調べたところでは、通称は代々「岩瀬清助」と名乗っていると思います(「寛政重修諸家譜」等より)。恐らく徳川家康の直参旗本取立以後に吉左衛門と称したのだと思います。

人名の「左衛門」と「右衛門」は筆書きの草書体では区別が付きづらく、しばしば混同され誤伝されるので同一人物を、たとえば牧野市右衛門と牧野市左衛門は同一人物を指す場合があり、岩瀬氏の場合はたまたま別系統・別人を指す例があった訳です。

なお、宝飯郡千両の岩瀬氏は岩瀬忠家子孫で三河岩瀬氏の発祥の地の住人ですが、惣領家では無いようです。これは松平氏において、松平郷松平氏や岩津松平家が家康の時代の松平氏惣領家でないのと同じです(松平惣領家は安城松平家)。

なお、ウィキメディア財団のサーバーが故障のためレスが遅れました、あしからず。--故城一片之月 2008年9月22日 (月) 18:48 (UTC)[返信]

今泉さん今晩は。牛久保六騎の岩瀬氏の件、分かり易く書き改めてみましたので宜しければ御覧下さい。--故城一片之月 2008年9月25日 (木) 12:34 (UTC)[返信]


私の会話ページに、今泉さんの質問とも感想とも取れる書き込みがあったので、ここに少し付言いたします。

  • あなたは、なぜ岩瀬氏が今川家臣を僭称したと結論づけるのでしょうか?例えば岩瀬雅楽助・岩瀬彦三郎等は今川氏真から直接に感状・知行宛行状などの文書を受けていることからも今川氏被官の性格を持っていることは明白ですが。「岡崎市史・史料編」や「豊橋市史・史料編」等をお調べになりましたか?
  • 岩瀬氏が二階堂氏流で岩瀬郡岩瀬から移住した伝承を疑われているのですか、ならば明確に否定できる反証をお持ちでしょうか?お持ちならば、それを出典提示して記述に協力されてはいかがでしょうか。

その辺のところは鉄三郎氏も了解はされていたかに私は思いますがどうなんでしょう。--故城一片之月 2008年9月26日 (金) 14:55 (UTC)[返信]

今泉さんのお話の趣意は了承しました。また、鉄三郎氏とごく近い方と勝手に受け取っていた私も少し発言が行き過ぎたようです、その点はすみませんでした。これからも遠慮なくどうぞ。--故城一片之月 2008年9月27日 (土) 12:24 (UTC)[返信]

井戸端への投稿について[編集]

今泉総一郎 さんは、井戸端に「岡田有希子のノートで、永久保護(編集禁止)を提案する参加者がいるが」と題する話題を書き込まれましたが、あやまって、Wikipedia:井戸端/subj/ブロックされたオープンプロクシの会話ページにTemplate:Blocked proxyを貼り付けてもよいかに投稿されてしまったようです。そこで、勝手ながら、当該記述をWikipedia:井戸端に移動いたしました。

井戸端の正常な運営、過去ログ化に必要な措置ですので、ご容赦いただければ幸いです。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2008年11月3日 (月) 16:30 (UTC)[返信]

波多野全慶の項目などの件[編集]

こんにちは。ウィキ豊と申します。利用者:Gyrobesttt会話 / 投稿記録 / 記録氏の編集のご報告、ありがとうございます。--ウィキ豊 2008年11月23日 (日) 23:39 (UTC)[返信]

長興寺碑文の件[編集]

こんにちは、私の会話ノートへの貴殿の書き込みを見てきました。レスはそちらに書きましたので御覧下さい。--故城一片之月 2008年12月20日 (土) 15:48 (UTC)[返信]

岡田有希子の保護解除依頼提出のお知らせ[編集]

ノート:岡田有希子において編集内容についての合意形成ができ、保護解除に反対する意見もありませんでしたのでWikipedia:保護解除依頼にて解除依頼を提出いたしました。ご確認ください。--Web comic 2009年5月4日 (月) 20:42 (UTC)[返信]


三河真木氏の件[編集]

今泉さん、今晩は。

yourpediaにja.wikipediaの三河真木氏とほぼ同一の記事が掲載されているようですが、yourpediaは丸ごとコピペ容認のようです。また、記事の立項者(利用者:捏造の全滅(無限の正義))は、ja.Wikipediaで(Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/オタスケマン利用者:東京ウォーカーとして無期限投稿ブロック中)の同一人物と認識しておりますが、yourpediaは主要検索エンジンには殆どかからない現状であり、影響度から考えて今は特に問題視をしていません。以上です。--故城一片之月 2009年8月17日 (月) 12:50 (UTC)[返信]


越後長岡藩の家臣団の件[編集]

今泉さん、記事整理でいろいろ御苦労様です。先日お尋ねの着座家の件、私の会話ノートにお返事しましたので、宜しければ見て下さい。--故城一片之月 2010年1月8日 (金) 15:31 (UTC)[返信]

SPEEDの削除依頼について[編集]

はじめまして、Ziman-JAPANと申します。今泉総一郎さんは、Wikipedia:削除依頼/SPEEDで私の意見にご賛同くださいましたが、再検討した結果、特定版削除票を撤回することにいたしました。梯子を外す形になってしまい申し訳ありません。

ですので、よろしければ今泉様も、この件についていま一度再検討いただければ、と思います。釈迦に説法かとは思いますが、私が変節してもなお特定版削除票を維持する、という判断でもかまいませんので、よろしくお願い申し上げます。--Ziman-JAPAN 2010年1月21日 (木) 06:11 (UTC)[返信]


”上級藩士の過員”節について[編集]

こんにちは、利用者:故城一片之月です。越後長岡藩#上級藩士の過員の節における、私の出典要請に関し今泉総一郎さんは、「その後、3代藩主・忠辰の時代になると、不相応の大身は減石されたといわれている【長岡の歴史】。」と編集および出典略号を付記して頂きました。しかし、この出典略号はページ:越後長岡藩では未だ定義していません。それと、「3代藩主・忠辰の時代の減石」記述は、その今泉省三著「長岡の歴史 第1巻」の何頁にあるか判りますでしょうか?手持ちの該当本を確認してますが見当たりません。

そもそも、「上級家臣の過員」が財政圧迫の大きな原因であったという記述自体がこの本の記述には無いように思いますし、むしろ、寛永期から寛文期に移行する段階での大幅な藩士数の増加が財政圧迫の一つの要因との趣旨ではないかと読み取れますが、今泉さんのお考えは如何でしょうか?(→同書、第四節 知行高と役高「長岡藩の財政をもっともおおきく圧迫したものの一つに、収納に比して多くの家臣を抱えこんでいたがためとされている。」(p218)、同・第五節 家臣の員数/家臣団の趨勢(p293))--故城一片之月 2010年1月22日 (金) 16:23 (UTC)[返信]

>故城一片之月さんも、ノートでそのようなことを書かれていたと思いますが……
上記の今泉さんの指摘を受け、自分のノート(過去ログ含む)見返したんですが、よく分かりません。記憶に無いので、どこのノートの記述か教えて戴けますか?--故城一片之月 2010年1月22日 (金) 17:37 (UTC)[返信]

確認したところ、ありませんでした。どこで見たかわかれば、御報告します。--今泉総一郎 2010年1月22日 (金) 22:42 (UTC)[返信]

私も鉄三郎氏等、他の方との会話記録、あるいは「三河牧野氏」・「牛久保六騎」・「東三河司頭」等の各頁のノートも見てみましたが、見つかりませんね……--故城一片之月 2010年1月23日 (土) 02:19 (UTC)[返信]

中老職の300石以上筋目について[編集]

今泉総一郎さんに修正編集して頂いた部分ですが、長岡藩において中老職は300石以上(過去に知行300石以上であった家含め)とのことですね。

ですが、『長岡の歴史 第1巻』の職制・中老(p200-)の記述によれば、野村清右衛門(織居)家・萩原要人(三郎右衛門)家・杉田弥次兵衛(弥右衛門)家の各家はいずれも中老職にいたとされる一方、『長岡藩政資料集(6)』の各時代分限帳等資料および『長岡藩政史料集(2)』の「諸士由緒記」の記述中では、最高知行250石であって300石以上の実績は発見できませんでした。彼らが知行300石以上であったのはいつ頃のことでしょうか?宜しければ、どの掲載資料を御覧になったのか教えて戴けませんか。--故城一片之月 2010年1月23日 (土) 02:19 (UTC)[返信]

誤っていたようなので訂正しておきます。申し訳ありません。--今泉総一郎 2010年1月23日 (土) 16:31 (UTC)[返信]

今回の記事差し戻しの件[編集]

折角、寄稿・編集して頂いたのに誠に遺憾ながら、差し戻し致しました。理由はノート:越後長岡藩の家臣団に書きましたので御覧下さい。--故城一片之月 2010年1月24日 (日) 01:59 (UTC)[返信]

先法三家の出自は転記終了です[編集]

越後長岡藩の家臣団の先法三家の出自は各ページに転記を終了しました(野瀬氏は重複で全省略)。--故城一片之月 2010年1月25日 (月) 16:59 (UTC)[返信]

年男について[編集]

ページ:越後長岡藩において、今泉さんの立てられた節項目「年男」についてお尋ねしたい点が少しありますので、ご面倒でもノート:越後長岡藩#年男についてを御覧下さい。--故城一片之月 2010年2月10日 (水) 16:59 (UTC)[返信]

改名投票へのCU依頼[編集]

どうもお世話様です。今泉総一郎さんも投票権を行使したノート:四国攻め/Log1の投票では「四国征伐」から「四国攻め」への改名が実施されました。その後、Wikipedia:コメント依頼/Machine gun他で多重アカウントによる不正投票が疑われたことにより、Wikipedia:チェックユーザーの方針#日本語版でのチェックユーザー情報公開規定の第3項を基礎とするチェックユーザー依頼を提出したいと思います。これを告知すると共に、ご協力を願えるのであれば賛同を表明していただきたいと思います。
私もですが、自分自身を含めた多人数のCUは気持ちよいものではありませんが、今後も議論や利用者がターゲティングを受けて5アカウント(あるいはそれ以下、あるいはそれ以上)による議論撹乱や不正投票による工作が疑われるような環境で健全な議論をすることは難しいように思えます。
また、対象が安全に分離された多重アカウントであればCUが徒労の終わる場合も考えられますし、無論無罪である場合も考えられます。それでもなおかつ、疑惑に対する健全性を向上させる手段としてCUを依頼したいと考えます。ご考慮をお願いします。--Yasumi 2010年5月5日 (水) 03:00 (UTC)[返信]


寺田寿男[編集]

はじめまして、高円寺藩と申します。寺田寿男の記事が匿名参加者や極端に投稿が少ない参加者によって書き換えられています。お互いに監視を強めるべきだと考えます。日本の長者として著名なファミリーであり、すべて出典の明らかなものばかりなので、この記事は守り抜くべきだと考えています。協力を要請します。--高円寺藩 2010年6月13日 (日) 11:44 (UTC)

プレビュー機能のお知らせ[編集]

投稿時、中央のボタンを押すとプレビューできます。(詳細画像

こんにちは。ウィキペディアへのご寄稿ありがとうございます。今泉総一郎さんが同じ記事に対して短時間に連続して投稿されているようでしたので、プレビュー機能のお知らせに参りました。投稿する前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。

これを使うことで

などをあらかじめチェックし、修正してから投稿していただくことにより、同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点については、同じ記事への連続投稿を減らすの項目に説明がありますので、よろしければお読みください。また、ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますので、あわせてお読みいただけると幸いです。ご理解とご協力をよろしくお願いします。なお、もしすでにご存知のことでしたら、悪しからずお願いいたします。 --219.161.180.92 2010年6月14日 (月) 13:12 (UTC)[返信]

寺田寿男について[編集]

寺田寿男における今泉総一郎さんの一部の加筆[1][2]についてですが、その後、これら加筆に対し、出典の明記を求めるタグが貼り付けられたたままになっていたので[3]、勝手ながら該当箇所をコメントアウトさせていただきました[4]。該当箇所には【】内に出典らしき言及がありますが、この記事は全体でin-line citationのスタイルをとっており、少なくとも同一項目内では統一させることが望ましいと思われます。何卒、ご理解・ご協力をお願いいたします。なお、in-line citationにつきましてはWikipedia:Good article criteriaをご覧ください。--Damena 2010年7月8日 (木) 04:34 (UTC)[返信]

氏族の記事名について[編集]

今晩は、以前豊後佐伯氏関連でお世話になりました胡亂堂と申します(その節にはお手を煩わせて申し訳ありませんでした)。さてその際に「佐伯氏 (豊後)」と作成したところ、貴殿より「国名(地域名)+氏族」が慣行であるとのご指摘をいただきましたので、それを踏まえまして今般「大神氏 (豊後国)」の改名を提案致しましたところ、そういう慣行は存在しないのではとの反論がありました。誠に恐れ入りますが、出来ましたら当該頁のノートにてご意見を賜りたく存じますので、よろしくお願い申し上げます。--胡亂堂 2010年8月24日 (火) 10:38 (UTC)[返信]