コンテンツにスキップ

利用者‐会話:124.101.109.105

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

注意 注意

このIPアドレス124.101.109.105ホスト:p173105-ipngn200704fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp)はインターネットサービスプロバイダOCNに割り当てられており、プロキシサーバおよびNAPTゲートウェイを経由して多数の利用者が同一IPで接続する可能性があります。また、このIPアドレスは利用者が接続を切った後、もしくは期間経過後に、別の利用者または別のプロバイダに再び割り当てられる可能性があります。

このため、特定の利用者に対するメッセージを他の利用者が受け取ってしまったり、他の利用者の荒らし行為のために無実の利用者がブロックされてしまったりするかもしれません。もしあなたがこのIPアドレスから編集していて身に覚えのないメッセージのために不快な思いをしているなら、あなた専用のアカウントを作成することによって解決できます。荒らしへの対処のために一時的にアカウントの作成および投稿・編集ができない場合もありますが、Wikipedia:FAQ 投稿ブロックをお読みになり管理者までお問い合わせください。

もし繰り返し自動ブロックに巻き込まれるようであれば、ご使用のネットワークの管理者に対してウィキメディア財団XFF projectに連絡をしてプロキシサーバのX-Forwarded-For HTTPヘッダを有効にしてもらうよう依頼することをお勧めします。この方法により対象となる利用者のみをブロックすることができます。


管理者へ - このIPアドレスをブロックする場合やこのIPアドレスからの投稿を差し戻す場合は慎重に行ってください。ブロックが必要な場合は、可能な限り「ソフトブロック」(autoblock無効、アカウント作成有効、匿名利用者のみブロック、会話ページの編集可能)とし、利用者の会話ページでブロック理由を説明してください。

お知らせ: もし、このIPアドレスから荒らしがあり、それが続く場合、ネットワーク管理者へ荒らし行為を通報し、調査を依頼することがあります。

ネットワーク管理者がこのIPアドレスからの荒らし行為を監視したい場合は、このページのフィードRSSAtom)を閲覧することができます。

従来の通説間違いであることが判っていながら、従来説を根拠とすることを主張するのは「ごり押し」ではないでしょうか。また、「信憑性はどうであれ、書籍などで一般的に知れられる説」(つまり、娯楽性の高い一般的な本にある俗説)はWikipediaの記事の出典にはできない筈です。それから、Wikipediaでは礼儀を忘れないことも大切とされ、「あなた自身を著名人にしてからにしてくださいな」のような無礼な発言で威圧するようなことは、決して良いことはされていないはずです。

そういうことで貴方の編集は差し戻さしていただき、良兼との不仲の原因が「『今昔物語集』にある土地争い」ではなく、「『将門略記』の女論(娘が良兼の反対を押し切って将門の元に走ったこと)」とされている、ということについての出典を追加させていただきました。

ここで、福田豊彦は、

良兼の娘は将門の妻として同居しており、良兼が彼女を強引に連れ戻ったが、懐恋の情をみて弟たちが将門のもとに逃がしたとあるので、良兼は娘の将門との結婚に強く反対していたと考えられ、将門と良兼の争いはこのことにあるとするのが、至当であろう。としております。

さらに、当時の婚姻形式は招婿婚であり、夫の家への同居は皇女のような例外を除くと、身分的に下のものからの進上婚に限られ、やや保守的であったと考えられる良兼が、夫の家に住まわせる進上婚式の婚姻を認めなかったのは当然であろう。とし

そして、『将門記』の記述から、将門と彼女のあいだに他の女性が介入する余地は少なく、当時のことだから側室があって当然とする、いわゆる著名人の安易な説を批判しております。これは、研究者のあいだでの一致した見解であり、いわば定説です。

なお、現在の平将門の記事では、側室に「桔梗」が載せられております。ですが「桔梗の前」は「妖怪としての平将門」の側室で、俵の藤太に密通され、七人の陰武者をもつ平将門の弱点が「こめかみ」にあることを教えた、とする江戸時代の伝奇小説に登場するものです。そのため将門の呪いによって相馬には桔梗が咲かない、ということになるのですが、実際には江戸時代「相馬桔梗」は漢方薬として知られており、この話が「相馬桔梗」の宣伝のため流布され有名になったのというのが実情といわれていますす。

また、正室を平真樹の娘とするお話は、『将門記』の「弓袋山の逆襲」で、「真樹の陣営だけは死者が出なかった」となっていることに付いて、赤城宗徳氏が、真樹の娘が将門の妻であり良兼に殺された(上総に連れ去られたのは妾であり、妻ではない)と推量し、「真樹は殺された娘の弔い合戦として参加していたので彼の軍だけ士気が高かった」ということを主張していることから来たものだと思われます。しかし、これは赤城氏が、将門の正室を地元明野町の出身とし、町おこしのための話題作りをしたもので、研究者はこれを説とはみなしていません。

要するに、研究者と呼ばれる人たちの説なら一定の信憑性はあるのでしょうが、いわゆる著名人にはいろいろな人が含まれ、そういった人たちの受け狙いの発言に類するものは、如何に一般的に知れらていても、説とすら呼ぶべきものではないということです。--218.47.7.112 2012年9月20日 (木) 07:53 (UTC)[返信]