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赤城宗徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
赤城 宗徳
あかぎ むねのり
防衛庁長官として海上自衛隊横須賀地方総監部及び第2術科学校を視察する赤城(1959年7月22日撮影)
生年月日 1904年12月2日
出生地 日本の旗 茨城県真壁郡上野村(現・筑西市
没年月日 (1993-11-11) 1993年11月11日(88歳没)
出身校 東京帝国大学法学部法律学科
所属政党 (無所属→)
翼賛政治会→)
護国同志会→)
日本協同党→)
(無所属→)
自由党→)
日本民主党→)
自由民主党岸派椎名派河本派
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
紺綬褒章
衆議院永年在職議員
法学士
配偶者 妻・赤城ヒサ
親族 孫・赤城徳彦

日本の旗 第25・32-34・42代 農林大臣
内閣 第1次岸改造内閣
第2次池田第3次改造内閣
第3次池田内閣
第3次池田改造内閣
第1次佐藤内閣
第3次佐藤改造内閣
在任期間 1957年7月10日 - 1958年6月12日
1963年7月18日 - 1965年6月3日
1971年7月5日 - 1972年7月7日

日本の旗 第11代 防衛庁長官
内閣 第2次岸改造内閣
在任期間 1959年6月18日 - 1960年7月19日

内閣 第2次岸内閣
在任期間 1958年6月12日 - 1959年6月18日

選挙区 (茨城県第3区→)
旧茨城3区
当選回数 15回
在任期間 1937年4月30日 - 1938年2月14日
1942年4月30日 - 1945年12月18日
1952年10月1日 - 1976年12月9日
1979年10月7日 - 1990年1月24日

在任期間 1935年[1] - 1944年[1]

その他の職歴
茨城県上野村
1931年[1] - 1945年[1]
第13代 自由民主党政務調査会長
総裁:佐藤栄作
(1965年 - 1966年
第8代 自由民主党総務会長
総裁:池田勇人
1961年 - 1963年)
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赤城 宗徳(あかぎ むねのり、1904年明治37年〉12月2日 - 1993年平成5年〉11月11日)は、日本政治家、教育者、剣道範士栄典正三位勲一等

農林大臣(第25・32-34・42代)、防衛庁長官(第11代)、内閣官房長官(第17代)、衆議院議員(15期)、茨城県会議員、茨城県上野村長、自由民主党政務調査会長(第13代)、同総務会長(第8代)、同副幹事長、同茨城県支部連合会会長などを歴任[1][2]

弟はNHK専務理事を務めた赤城正武[2]、孫は農林水産大臣や衆議院議員を務めた赤城徳彦[2]

来歴・人物

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茨城県真壁郡上野村(後の明野町、現在は筑西市)の代々名主を務めた家に生まれる。若くして父康助[3]を失い、母むめと祖父喜八郎に育てられる。

旧制下妻中学校卒業。旧制水戸高等学校を経て、1927年東京帝国大学法学部法律学科を卒業。地元の上野村長を経て、1937年衆議院議員総選挙に立候補し初当選する[4]。しかし、その翌年選挙費用の超過により、裁判で「当選無効」となり[5]、衆議院議員を失職する[6]1942年翼賛選挙翼賛政治体制協議会の推薦を受け再選する。当選後、岸信介率いる護国同志会、その後は日本協同党に所属して活動するが、戦後、公職追放を受ける。その最中に行われた1947年第1回統一地方選挙では妻のヒサが上野村長に当選し、全国で3人生まれた女性首長の一人となった[注釈 1]

1952年、追放解除後の第25回衆議院議員総選挙自由党公認で立候補し当選、政界に復帰する。政界に復帰後は吉田茂政権打倒に動き、1954年自由党を離党し鳩山一郎を総裁とする日本民主党に参加した。その後、1955年保守合同にともない自由民主党に参加、岸派に属した。

1957年第1次岸内閣の農林大臣として初入閣する。農相に就任した赤城を待ち受けていたのが日ソ漁業交渉であり、赤城は、イシコフ・ソ連漁業大臣との間に「100日漁業交渉」と呼ばれる激烈な交渉を繰り広げた。この漁業交渉がきっかけとなって、後年赤城は日ソ親善協会会長を務める。第2次岸内閣で内閣官房長官、そして、日米安保条約改定をめぐる政局では、1959年第2次岸改造内閣にて主務大臣である防衛庁長官に就任する。1960年安保闘争に際して反対する数万人規模のデモが連日国会を囲む中、首相岸信介に自衛隊治安出動を打診されるが、“自衛隊が国民の敵になりかねない”と反対したことで知られる。

1962年、岸が派閥を福田赳夫に譲る言動を取るとそれに猛反発し、川島正次郎椎名悦三郎らと川島派を結成し岸と決別。川島派を継いだ椎名派が解散した後は三木→河本派に加わった。総務会長時には将来総理となる官房長官大平正芳に「法案の閣議決定の前に総務会にご連絡願いたい」という書簡を送り現状の自民党のシステムを作った。1964年6月、下館市民会館建設費として10万円寄付により1966年2月12日紺綬褒章受章[8][9]1971年第3次佐藤改造内閣でも農林大臣を務める。1975年春の叙勲で勲一等旭日大綬章受章。1976年の総選挙で落選するが、1979年に国政復帰。1990年に政界を引退し、地盤を(当時農林水産省の官僚だった)孫の徳彦に譲る。

霞ヶ浦高等学校の校長を1956年から1990年まで務めた。1956年から1967年までは学校法人霞ヶ浦高等学校の理事長も兼務した。

1993年11月11日死去、88歳。死没日をもって正三位に叙され、銀杯一組を賜った[10]

平将門の研究[注釈 2]でも知られ、多くの著作がある。

エピソード

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赤城の所属した川島派では、内閣改造に際しての大臣候補として荒舩清十郎を首相に推薦したものの、首相から反対を受け当時総務会長であった赤城が就任することとなった。そして、この経緯を知る赤城は内閣改造後の派閥の乾杯の際に思わず「すみません」と頭をさげたが、「すみませんということがあるものか。めでたいよ。こんどは赤城さんにがんばってもらって、オレたちを早く押し出してもらうさ」と全く意に介さない様子で真っ先に盃を上げた。この一連の流れを受け、川島はホッと救われた表情をしたという[11]

著書

[編集]
  • 『その後』鳥羽書房、1938年。NDLJP:1080450 
  • 南方圏を視る (長谷長次共著 新日本同志会 1941年)
  • パプアの農業建設 ニューギニア開発の方針 (南方建設中央研究所 1943年)
  • 『苦悩する農村 農業問題管見』万有社、1953年。NDLJP:2502850 
  • わが百姓の記 (平凡社 1958年)
  • 『ラテン・アメリカの旅より』全国拓植農業協同組合連合会、1958年。NDLJP:2986334 
  • 平将門 (産業経済新聞社 1960年、角川選書 1970年)
  • 将門記 真福寺本評釈 (サンケイ新聞出版局 1964年)
  • ふるさとの心 (共同通信社開発局, 1966年)
  • 記者席からみた国会十年の側面史 安保から安保まで (鈴木孝信共編 サンケイ新聞社出版局 1969年)
  • あの日その時 (文化総合出版 1971年)
  • 将門地誌 (毎日新聞社 1972年)
  • 今だからいう (文化総合出版 1973年)
  • 初心生涯 (文化総合出版 1975年)
  • 赤城宗徳と平将門 (楡の木会 1976年6月)
  • 『素顔のソ連邦』徳間書店、1980年12月。NDLJP:11926983 
  • 『日ソ関係を考える 激動の大正・昭和を生きて』新時代社、1982年4月。NDLJP:11926841 
  • 私の平将門 (崙書房 1983年11月)
  • わが百姓の記 日本の農業と農村を想う(筑波書林、1985年)、小冊子

系譜

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  • 赤城氏
                        
               中曽根康弘  
                  ┃   
                  ┣━━━┳美智子
                  ┃   ┃
         小林儀一郎━━━蔦子   ┃  
                      ┗美恵子 
                 ┏渥美昭夫  ┃
                 ┃      ┃
          渥美育郎━━━╋渥美謙二  ┃
                 ┃      ┃
                 ┗渥美健夫  ┃
                   ┃  ┏渥美直紀
                   ┣━━┫
                   ┃  ┗渥美雅也
                     ┏伊都子
                     ┃
                鹿島守之助   ┃石川六郎
                  ┃    ┃ ┃
                  ┃    ┣よし子
          鹿島精一   ┣━━━━┫
               ┃    ┃    ┃平泉渉
               ┃    ┃    ┃ ┃
               ┣━━━卯女    ┣三枝子
               ┃         ┃
               ┃         ┃
        鹿島岩蔵━━いと        ┗鹿島昭一
                         ┃
                         ┃
                       ┏公子
         梁瀬長太郎━梁瀬次郎━━━━┫
                       ┗弘子
                        ┃
                        ┃
                 ┏━━━━稲山孝英
    稲山伝太郎━稲山嘉寛━━━┫
                 ┗━━━━稲山繁孝
                        ┃
赤城喜八郎━━赤城康助             ┃
           ┃    ┏━━赤城正武━━博子
           ┣━━━┫
           ┃    ┗━━赤城宗徳
          むめ        ┃
                     ┣━━━━━━赤城毅彦━━━赤城徳彦           
                     ┃
                    ヒサ

脚注

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注釈

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  1. ^ この統一地方選挙で夫の公職追放後に妻が立候補して首長となった例は、他に岐阜県本巣郡穂積村(1948年から穂積町、現在の瑞穂市)の松野友秋田県仙北郡中川村1955年に合併で角館町、現在の仙北市)の澤口フクがいる。ヒサは1951年に再選[7]。上野村が1954年に合併して明野町となるまで務めた。
  2. ^ 『平将門』(角川選書・角川書店)、『将門地誌』(全三巻、ふるさと文庫・筑波書林、のち新編)、『私の平将門』(崙書房)を著した。

出典

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  1. ^ a b c d e 広報うしく 2012年1月1日号』(PDF) 1064巻、牛久市市民活動課、2012年1月1日、16頁https://www.city.ushiku.lg.jp/kouhoushi/2012_01_01/image/2012_01_01.pdf2023年11月29日閲覧 
  2. ^ a b c 赤城 宗徳”. コトバンク. DIGITALIO. 2023年11月29日閲覧。
  3. ^ http://kingendaikeizu.net/seizi/akagi.htm
  4. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 9頁。
  5. ^ 『茨城の国会議員列伝』100頁。
  6. ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』426頁。
  7. ^ 『明野町史』1244頁。
  8. ^ 筑西市名誉市民
  9. ^ 『官報』第11756号9-13頁 昭和41年2月21日号
  10. ^ 『官報』第1296号8-9頁 平成5年12月8日号
  11. ^ 小畑伸一『政界一寸先は闇 : ある川島担当記者の手記』黄帆社、1972年、108-109頁。 

参考文献

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  • 明野町史編さん委員会編『明野町史』明野町、1985年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』大蔵省印刷局、1990年。
  • 市村眞一著『茨城の国会議員列伝』崙書房出版、1990年。
  • 新訂 政治家人名事典 明治~昭和』(2003年、編集・発行 - 日外アソシエーツ、9-10頁)

関連項目

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議会
先代
林百郎
日本の旗 衆議院懲罰委員長
1980年 - 1981年
次代
中野四郎
公職
先代
倉石忠雄
重政誠之
井出一太郎
日本の旗 農林大臣
第42代:1971年 - 1972年
第32-34代:1963年 - 1965年
第25代:1957年 - 1958年
次代
足立篤郎
坂田英一
三浦一雄
先代
伊能繁次郎
日本の旗 防衛庁長官
第11代:1959年 - 1960年
次代
江﨑真澄
先代
愛知揆一
日本の旗 内閣官房長官
第19代:1958年 - 1959年
次代
椎名悦三郎
党職
先代
周東英雄
自由民主党政務調査会長
第13代:1965年 - 1966年
次代
水田三喜男
先代
保利茂
自由民主党総務会長
第8代:1961年 - 1963年
次代
藤山愛一郎