一松定吉
一松 定吉 ひとつまつ さだよし | |
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検事時代の一松定吉 | |
生年月日 | 1875年3月18日 |
出生地 | 日本 大分県西国東郡美和村 |
没年月日 | 1973年6月8日(98歳没) |
死没地 | 日本 東京都港区赤坂 |
出身校 |
明治法律学校卒業 大分県尋常師範学校講習科卒業 |
前職 | 大阪市会議員 |
所属政党 |
(立憲民政党→) (日本進歩党→) (民主党→) (国民民主党→) (改進党→) (日本民主党→) 自由民主党 |
称号 |
正三位 勲一等旭日大綬章 勲一等瑞宝章 紺綬褒章 杵築市名誉市民 豊後高田市名誉市民 |
内閣 | 第1次吉田内閣 |
在任期間 | 1946年5月22日 - 1946年7月1日 |
第50代 逓信大臣 | |
内閣 | 第1次吉田内閣 |
在任期間 | 1946年7月1日 - 1947年5月24日 |
第15代 厚生大臣 | |
内閣 | 片山内閣 |
在任期間 | 1947年5月24日 - 1948年3月10日 |
初代 建設大臣 | |
内閣 | 芦田内閣 |
在任期間 | 1948年3月10日 - 1948年10月15日 |
一松 定吉(一松 定𠮷[1]、ひとつまつ さだよし、1875年3月18日[2] - 1973年6月8日[3])は、明治、大正、昭和期の日本の検事、弁護士、政治家。
衆議院議員(8期)。参議院議員(2期)。逓信大臣(第50代)、厚生大臣(第15代)、建設大臣(初代)。杵築市名誉市民[4]。豊後高田市名誉市民[5]。
来歴・人物
[編集]1875年、大分県西国東郡美和村田福(現豊後高田市)で神官波多宗直の次男として生まれる[6]。西国東郡立高等小学校、大分県尋常師範学校を経て地元の小学校の訓導となる[7]。1898年に杵築町の一松家の養子となり、一松姓を名乗る[7][6]。
翌年上京して小学校訓導を務めながら明治法律学校(現明治大学)に通った[7]。平出修らとともに法学の勉強に励むかたわら[8]弁論大会でも活動し、1901年には講師や校友らに働きかけて第一期擬国会(帝国議会を模倣した模擬国会)を開催した[9]。
卒業後の1903年に判事検事登用試験第1回試験に合格し、1905年に判事となる[2]。1908年検事に転官して天草、佐賀、横浜、大阪などで勤務し[2]、1914年-15年の高松事件で主任検事を務め、鬼検事の異名をとった[6]。1920年、大審院検事の昇進辞令発令をもって退官し、大阪で弁護士事務所を開く。1925年大阪市会議員に当選[7]。
1928年、大阪1区から第16回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で出馬し初当選、1947年の第23回衆議院議員総選挙まで連続8回当選を果たす。1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)での非推薦当選議員の一人でもある[7]。
1941年から1946年まで全日本柔道整復師会会長を務めた[10]。
1945年11月の日本進歩党結党に参加。第1次吉田内閣の国務・逓信大臣、片山内閣の厚生大臣、芦田内閣の初代建設大臣、日本進歩党の幹事長などを歴任した。1949年の第24回衆議院議員総選挙には落選し、翌年の第2回参議院議員通常選挙に国民民主党公認で出馬し当選、参院議員に転身して2期務めた。1957年に裁判官弾劾裁判所裁判長となる。1962年の第6回参議院議員通常選挙で落選し、政界から引退[7]。当時最年長の国会議員であった。
1973年6月8日、心不全のため東京都港区の心臓血管研究所付属病院で死去[3]、98歳。葬儀は6月13日に自由民主党葬で行われた[11]。死没日をもって正五位から正三位に叙される[12]。
1957年に私邸を杵築市に寄贈し、現在「一松邸」として残っている[13]。
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一松邸(杵築市南杵築)
栄典
[編集]- 紺綬褒章(1957年[14][注 1]、1964年[注 2]、1971年[注 3])
- 勲一等瑞宝章(1964年、勲三等からの昇叙)[1][14]
- 勲一等旭日大綬章(1972年)[4][18]
- 正三位(1973年)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 『官報』第11211号19頁 昭和39年4月30日号
- ^ a b c 『帝国法曹大観』 358頁
- ^ a b 『朝日新聞』 1973年6月9日付朝刊23面
- ^ a b “一松 定吉”. 杵築市. 2022年12月5日閲覧。
- ^ “名誉市民”. 豊後高田市. 2022年7月23日閲覧。
- ^ a b c 『大分百科事典』649頁
- ^ a b c d e f 『明治大学小史―人物編』96-97頁
- ^ 『風雪九十年 前編』 62-63頁
- ^ 以後1916年まで「明治帝国議会」という名称で16回開催された(明治大学百年史編纂委員会『明治大学百年史』第三巻 通史編Ⅰ、学校法人明治大学、584-586頁)。
- ^ 社団法人設立65周年記念・柔道整復術公認100周年記念誌
- ^ 自由民主党『自由民主党党史』1987年、索引(事項、人名、法律・条約等)年表138頁
- ^ 『官報』第13939号17-18頁 昭和48年6月14日号
- ^ 一松邸/杵築市 2022年12月8日閲覧。
- ^ a b 『杵築市誌』名誉市民
- ^ 『官報』第9281号538-540頁 昭和32年11月28日号
- ^ 『官報』第11192号22-25頁 昭和39年4月7日号
- ^ 『官報』第13256号10-12頁 昭和46年3月2日号
- ^ 『官報』第13607号13頁 昭和47年5月4日号
参考文献
[編集]- 帝国法曹大観編纂会『帝国法曹大観』1915年
- 一松定吉『風雪九十年 前編』東京書房、1963年
- 一松定吉『続風雪九十年』東京書房、1967年
- 杵築市教育委員会内杵築市誌刊行会『杵築市誌』1968年
- 大分放送大分百科事典刊行本部『大分百科事典』1980年
- 明治大学史資料センター『明治大学小史―人物編』学文社、2011年。ISBN 978-4-7620-2217-3
公職 | ||
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先代 一松定吉 建設院総裁 |
建設大臣 初代:1948年 |
次代 益谷秀次 |
先代 片山哲 臨時代理 |
厚生大臣 第15代:1947年 - 1948年 |
次代 竹田儀一 |
先代 八田嘉明 |
逓信大臣 第50代:1946年 - 1947年 |
次代 片山哲 臨時代理 |
議会 | ||
先代 工藤鉄男 |
参議院懲罰委員長 | 次代 深川タマヱ |
先代 新設 |
参議院災害対策特別委員長 | 次代 辻武寿 |
先代 松原一彦 |
衆議院懲罰委員長 1955年 |
次代 中川幸平 |
先代 三浦虎雄 |
衆議院決算委員長 | 次代 加藤知正 |
先代 青山憲三 |
衆議院全院委員長 | 次代 牧野賤男 |
党職 | ||
先代 犬養健 |
日本進歩党幹事長 第3代 |
次代 田中萬逸 |
名誉職 | ||
先代 石坂豊一 |
最年長参議院議員 1959年5月 - 1962年7月 |
次代 野村吉三郎 |