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橋本龍伍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
橋本 龍伍
はしもと りょうご
生年月日 1906年6月2日
出生地 日本の旗 日本 東京府荏原郡目黒村
没年月日 (1962-11-21) 1962年11月21日(56歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都
出身校 東京帝国大学法学部法律学科
前職 大蔵官僚
所属政党民主自由党→)
自由党→)
自由民主党
称号 法学士
正三位
勲一等瑞宝章
子女 長男・橋本龍太郎(元内閣総理大臣
次男・橋本大二郎(元高知県知事
親族 父・橋本卯太郎(実業家)
孫・橋本岳衆議院議員

日本の旗 第78代 文部大臣
内閣 第2次岸内閣
在任期間 1958年12月31日 - 1959年6月18日

日本の旗 第20・31代 厚生大臣
内閣 第3次吉田第2次改造内閣
第3次吉田第3次改造内閣
第2次岸内閣
在任期間 1951年7月4日 - 1952年1月18日
1958年6月12日 - 1959年6月18日

内閣 第3次吉田第2次改造内閣
第3次吉田第3次改造内閣
在任期間 1951年7月4日 - 1952年1月18日

選挙区 岡山県第2区
当選回数 6回
在任期間 1949年1月24日 - 1962年11月21日
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橋本 龍伍(はしもと りょうご、1906年明治39年)6月2日 - 1962年昭和37年)11月21日)は、日本大蔵官僚政治家衆議院議員(6期)。位階勲等正三位勲一等瑞宝章。称号は法学士

大日本麦酒常務を務めた橋本卯太郎の五男で、第82代・第83代内閣総理大臣橋本龍太郎および高知県知事を務めた橋本大二郎の父、衆議院議員橋本岳の祖父である。

少年の頃に結核性の腰椎カリエスに罹って11年に及ぶ闘病生活を送り、生涯杖を離せない身体となった。苦学して第一高等学校東京帝国大学法学部を卒業、大蔵官僚内閣官房次長を経て吉田学校の一員として文部大臣厚生大臣等を歴任した。

来歴・人物

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生い立ち

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1906年6月2日、東京府荏原郡目黒村大日本麦酒(現・サッポロビール)社員の橋本卯太郎・マツの五男として生まれた[1]本籍渋谷区[2]

逗子開成中学第一高等学校文科乙類を経て、1934年東京帝国大学法学部法律学科独法科卒業。大蔵省に入る。

大蔵官僚として

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広島税務署長、大蔵省大臣官房戦時施設課長、経済安定本部財政金融局企業課長を歴任し、その間に独占禁止法などの立案に携わる[3]吉田茂首相の下で内閣官房次長となり、政界入りを勧められ退官。

政治家として

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1949年衆院選で岡山2区より民主自由党公認で出馬し当選[4]

1951年7月、12月第3次吉田内閣第2次改造内閣第3次吉田内閣第3次改造内閣で厚生大臣兼行政管理庁長官に就任。

1958年6月第2次岸内閣で厚生大臣に就任。1959年1月第2次岸内閣で文部大臣に就任。

1962年11月21日、喉頭により東京麻布の自宅において死去。葬儀委員長は自身と当選同期で親交があった佐藤栄作(龍太郎の結婚仲人もした)。墓所は岡山県総社市宝福寺。橋本龍伍は次男の大二郎を自分の後継者にする意向であったが、その時、大二郎はまだ被選挙権を持つ年齢に達していなかったため、急遽、橋本龍太郎が継ぐこととなった[5]

栄典

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家族・親族

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橋本家の人々、昭和16 (1941) 年撮影

橋本家

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岡山県総社市倉敷市東京都渋谷区港区
実家
  • 祖父・源三郎(岡山県平民[6]
  • 父・卯太郎東京府平民[6]、実業家・大日本麦酒の元常務)
    明治2年(1869年)3月生[7]
    岡山県人・橋本源三郎の長男[7]。卯太郎は農民だった[8]
    岡山県下道郡秦村(現・総社市)が高梁川の氾濫で水没すると上京、新聞配達をしながら苦学して高等工業学校を卒業[8]馬越恭平日本ビール社長に見込まれ入社した[8]。当時専務をしていた石光真澄が卯太郎の人柄を見抜いて「妹・真都を嫁に…」と望み、二人は馬越の媒酌で結婚する[8]酵母を扱う技師から常務に出世した卯太郎は8人の子宝に恵まれた[8]。男6人には「宇宙乾坤龍虎」に数字をつけて命名した[8]。趣味は書画骨董[7]
  • 母・マツ(熊本県、軍人石光真清 陸軍中将石光真臣の妹、陸軍主計総監男爵野田豁通の姪)
    石光家は旧藩時代熊本藩細川家に仕えた武家だった。石光家の身分は軽かったが、細川家が肥後入国の時からお供をした家柄であり、代々殿のお側に奉仕していたから特別の取り扱いを受けていた[9]
    • 宇一(学者・東京高等工業学校長、科学技術庁金属材料研究所初代所長)
    • 宙二(軍人・海軍大佐)
    • 乾三検事
    • 虎六(学者・元東北大教授)
自家
左から二男・大二郎龍伍、後妻・正、長男 龍太郎
昭和31年、撮影)
  • 先妻・春子(1917~1938、埼玉県、官僚、政治家大野緑一郎(元警視総監)の長女)…龍太郎を出産した5ヶ月後に中耳炎がもとで急逝
  • 後妻・(兵庫県、官僚、政治家若宮貞夫の四女)
  • 長男・龍太郎(政治家・首相)…春子との間の子
  • 二男・大二郎(NHK職員・政治家)…正との間の子

エピソード

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人柄・性格

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小学校はなんとか卒業することができたが、逗子開成中学に進むころから闘病生活に入った。闘病生活の間に独学で勉強し、検定で逗子開成中学を卒業した。病院から退院した時には高等学校の受験資格を得ていたため、第一高等学校に進学するべく願書を提出した。しかし身体障害者は軍事教練ができないという理由で、願書は突き返された。ひとまず慶應義塾大学に入学したが、入学したのと同時に連日文部省に通い直談判した。その結果、受験資格の認定制度が改定され、自分で行動できる障害者にも官立の旧制高等学校、大学への受験資格が与えられるようになった[10]。慶應を卒業することはなかったが、一度自分に門戸を開いてくれた学校への愛着は変わらず、長男龍太郎の慶應義塾大学進学を大変喜んだという。

龍伍について長男龍太郎は「物心つくころから私には父におぶってもらったり抱いてもらったという記憶はありません。いつも松葉杖かステッキをついている父の後を追って歩いた、そんな思い出だけが残っています」[11]。「私が自分の父親を尊敬し今でも誇りに思うのはそのハンディキャップにもかかわらず自分の人生を自分の力で切り拓いていった、その強靭な精神力です。そして絶対に物事に対してあきらめを持たなかった。本当に挑戦者という姿勢を生涯とり続けたことです」と述べている[12]

思想問題で官憲に追及されている友人を下宿にかくまったことにより、警察に2度拘留された[13]

自身の体が不自由だったことから、「政治は弱い人のためにある」を政治信条にしていた。この信条は龍太郎にも引き継がれ、厚生族としてのキャリアを政界で重ねていくこととなる[14]

その他

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趣味は登山、写真、美術鑑賞、和歌。宗教は臨済宗。住所は東京都港区麻布仲ノ町、岡山県総社市秦下[15]

脚注

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  1. ^ 『岡山県歴史人物事典』には“東京都出身”とある。
  2. ^ 第廿一版 人事興信録 昭和36年(1961年)、は二八に「東京都渋谷区在籍」とある。
  3. ^ 橋本龍伍著『独占禁止法と我が国民経済』日本経済新聞社、1947年、奥付・著者略歴
  4. ^ この選挙での当選同期に池田勇人・佐藤栄作・岡崎勝男前尾繁三郎麻生太賀吉小渕光平西村英一橋本登美三郎福永健司福田篤泰塚原俊郎藤枝泉介木村俊夫稲葉修河本敏夫森山欽司床次徳二有田喜一など
  5. ^ 本田雅俊 (2008-07-29). 総理の辞め方. PHP研究所. pp. 234-235. ISBN 978-4-569-70085-4 
  6. ^ a b 『人事興信録 5版』(大正7年)は八五
  7. ^ a b c 『明治大正人物史』
  8. ^ a b c d e f 橋本明著『戦後50年・年譜の裏面史 昭和抱擁 -天皇あっての平安-』 112頁
  9. ^ 石光真清著『城下の人』
  10. ^ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』 12-14頁
  11. ^ 仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』11頁
  12. ^ 仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』15頁
  13. ^ 『岡山県歴史人物事典』
  14. ^ 橋本龍太郎”. www.kantei.go.jp. 2020年10月17日閲覧。
  15. ^ 第廿一版 人事興信録 昭和36年(1961年)、は二八より

参考文献

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  • 山崎始男君の故議員橋本龍伍君に対する追悼演説」『衆議院会議録情報 第042回国会 本会議 第1号』、1962年。
  • 大月雄三郎 『総社市人物風土記』 1983年 200-201頁
  • 岡山県歴史人物事典編纂委員会 『岡山県歴史人物事典』 1994年、790-791頁。
  • 浅川博忠 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』 東洋経済新報社、1995年、11-24頁。
  • 俵孝太郎 『日本の政治家 親と子の肖像』 中央公論社、1997年、351-377頁。
  • 秦郁彦 『日本近現代人物履歴事典』 東京大学出版会、2002年、402頁。

関連項目

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外部リンク

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公職
先代
広川弘禅
日本の旗 行政管理庁長官
第7代:1951年 - 1952年
次代
木村篤太郎
先代
灘尾弘吉
日本の旗 文部大臣
第81代:1958年 - 1959年
次代
松田竹千代
先代
黒川武雄
堀木鎌三
日本の旗 厚生大臣
第20代:1951年 - 1952年
第31代:1958年 - 1959年
次代
吉武恵市
坂田道太
先代
有田喜一
日本の旗 内閣官房次長
第6代:1948年
次代
郡祐一