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山崎始男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山崎 始男(やまさき もとお、1904年明治37年)3月18日[1][注 1] - 1983年昭和58年)10月9日[1][2][3])は、昭和期の実業家政治家衆議院議員

経歴

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岡山県[2][3]吉備郡総社町[1](現総社市)で、米穀問屋・山崎重の長男として生まれる[1]。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)を経て[1]、1931年(昭和6年)慶應義塾大学政治学科を卒業した[1][2][3]名古屋市において製陶会社で勤務したり[1]木材関係貿易に従事した[3]。1944年(昭和19年)に帰郷し会社経営を行う[1]

1948年(昭和23年)初の公選制による岡山県教育委員に選出され、1949年(昭和24年)副委員長に就任[1][2][3]。1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙岡山県第2区から出馬して初当選[1][2][4]日本社会党に所属して第26回から第31回総選挙まで連続して再選され[5]、1969年(昭和44年)12月の第32回総選挙では次点で落選した[6]。1972年(昭和47年)12月の第33回総選挙で再選され[6]、1976年(昭和51年)12月の任期満了で政界を引退し[1][2]、衆議院議員に通算8期在任した[1][2][3]。この間、中央青少年問題協議会委員、中国地方開発審議会委員、衆議院産業公害対策特別委員長[1][2]、社会党中央委員、同両院議員総会副会長、同私学振興対策特別副委員長、同中国地方開発副委員長、同岡山県本部執行委員長、同顧問などを務めた[3]学校給食法(昭和29年法律第160号)、日本学校安全会法(昭和34年法律第198号)の成立に尽力[1]。また1951年(昭和26年)の岡山県知事選挙に、中学校時代からの親友である三木行治を擁立して当選に尽力した[1]

その他、岡山県美術刀剣協会会長、山陽工業社長、旭輸出敷物社長、平和タクシー会長、全国部落解放運動推進協議会委員、日本民主教育政治連盟岡山県支部長、学校法人川崎学園理事なども務めた[3]

伝記

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  • 『山崎始男の生涯』山崎始男追悼誌編集委員会、1985年。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『新訂 政治家人名事典』650頁では明治38年。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『岡山県歴史人物事典』1058頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『新訂 政治家人名事典』650頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』680頁。
  4. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』305頁。
  5. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』306-307頁。
  6. ^ a b 『国政選挙総覧 1947-2016』307頁。

参考文献

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  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『岡山県歴史人物事典』山陽新聞社、1994年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
  • 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。