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藤原節夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤原 節夫(ふじわら せつお、1906年明治39年〉11月10日[1] - 1992年平成4年〉4月17日[2][3])は、日本新聞記者官僚政治家衆議院議員総理府総務副長官(事務担当)。

経歴

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岡山県[注 1]出身[2][3][4]1932年昭和7年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業した[3][4]

時事新報読売新聞の記者を経て[3][4]官界に転じ、逓信大臣秘書官司法大臣秘書官、綜合計画局参事官、戦災復興院事務官、建設省弘報課長、総理府総務副長官(事務)を歴任[3][4]。臨時恩給等調査会委員、南方同胞援護会設立委員、中央青少年問題協議会副会長、日本民主党事務局長、自由民主党事務局長も務めた[3][4]

1958年(昭和33年)の衆議院総選挙岡山県第2区から自民党公認で出馬するが次々点で落選(ちなみに次点は藤井勝志[5]1960年(昭和35年)の総選挙でトップ当選して衆議院議員となるが[5]、この時大規模な選挙違反を起こして運動員や妻が検挙される。藤原本人も逮捕されて公職選挙法違反容疑で起訴され、裁判では1965年(昭和40年)3月13日に広島高等裁判所岡山支部懲役1年6月・執行猶予4年の有罪判決を言い渡され[6]、1966年(昭和41年)4月21日に最高裁判所第一小法廷岩田誠裁判長)で上告棄却の判決を受けて有罪が確定した[7]。このため再選を狙った次の1963年(昭和38年)の総選挙では自民党の公認を得られず次点で落選、有罪判決確定後の1969年(昭和42年)総選挙にも出馬したが次々点にも届かずに落選している[8]

衆議院議員在任中は、国土開発審議会委員、自民党教育部長兼宗教部長、同中小企業労働部長、同内閣副部会長、同中国地方開発副委員長、同北海道開発副委員長などを歴任。議員退職後は、自民党前議員会専務理事の座にあった[4]。1992年(平成4年)4月17日1時25分、肺炎のため駒崎医院[2]東京都杉並区)で死去[9](85歳没)[2]

栄典

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1979年(昭和54年)旭日中綬章受賞[10]。1992年(平成4年)4月17日、従四位[11]

著作

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  • 『祖国によせる三つの希い:憲法改正国土開発PR 私の履歴書』政経墾談会、1976年。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『最高裁判所裁判集 刑事第159号』439頁では本籍地:岡山県笠岡市大河[1]

出典

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  1. ^ a b 『最高裁判所裁判集 刑事第159号』439頁。
  2. ^ a b c d 中日新聞』1992年4月18日朝刊第一社会面31頁「藤原節夫氏死去」(中日新聞社
  3. ^ a b c d e f 『現代物故者事典 1991~1993』521頁。
  4. ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』557頁。
  5. ^ a b 『国政選挙総覧 1947-2016』306頁。
  6. ^ 『最高裁判所裁判集 刑事第159号』439、454頁。
  7. ^ 『最高裁判所裁判集 刑事第159号』439、442頁。
  8. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』307頁。
  9. ^ 朝日新聞』1992年4月17日東京夕刊第4版第一社会面11頁「藤原節夫氏死去」(朝日新聞東京本社
  10. ^ 官報』第15685号 1979年(昭和54年)5月2日水曜日 9頁「叙位・叙勲 旭日中綬章を授ける(中略) 藤原 節夫」
  11. ^ 『官報』本紙第901号 1992年(平成4年)5月1日金曜日 11頁「叙位・叙勲 従四位に叙する(四月十七日) 正六位 藤原 節夫」

参考文献

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  • 『最高裁判所裁判集 刑事第159号:昭和41年4月-6月』(国立国会図書館所蔵)
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『現代物故者事典 1991~1993』日外アソシエーツ株式会社、1994年。
  • 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。