松浦鎮次郎
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松浦 鎮次郎(まつうら しげじろう、旧字体:松浦 鎭次󠄁郞、明治5年1月10日(1872年2月18日) - 1945年9月28日)は、日本の文部官僚、教育者、政治家。九州帝国大学総長。
経歴
[編集]愛媛県宇和島市出身。庄屋・松浦素の二男として生まれる。第一高等学校政治科を首席で卒業し、1898年(明治31年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、内務省に入り内務属として県治局に配属された。同年12月、高等文官試験に合格。東京府参事官を務め、1902年(明治35年)2月、文部省に移籍して参事官に就任。以後、兼文部大臣秘書官・総務局人事課長、大臣官房秘書課長、文部大臣秘書官兼文部省参事官などを歴任。1906年(明治39年)2月に休職し、米独に留学した。1907年(明治40年)8月に復職し、以後、大臣官房会計課長、文部書記官、文部省専門学務局長などを務め、1924年(大正13年)1月、文部次官に就任した。
1927年(昭和2年)4月、依願退職し、同年7月、京城帝国大学総長に就任。1929年(昭和4年)10月から1936年(昭和11年)7月まで九州帝国大学総長を務めた。1930年(昭和5年)12月23日、貴族院勅選議員に任じられ[1]1938年(昭和13年)2月10日まで在任[2]。1936年(昭和11年)11月、九州帝国大学名誉教授となる。1938年2月、枢密顧問官に就任。1940年(昭和15年)1月、米内内閣の文部大臣に就任。同年7月、同内閣が総辞職をすると、再び枢密顧問官に選任され在職中に死去した。
栄典
[編集]- 位階
- 1900年(明治33年)7月10日 - 従七位[3][4]
- 1902年(明治35年)5月20日 - 正七位[3][5]
- 1904年(明治37年)5月30日 - 従六位[3][6]
- 1908年(明治41年)3月30日 - 正六位[3][7]
- 1909年(明治42年)12月27日 - 従五位[3][8]
- 1911年(明治44年)12月11日 - 正五位[3][9]
- 1917年(大正6年)1月10日 - 従四位[3][10]
- 1922年(大正11年)1月30日 - 正四位[3][11]
- 1927年(昭和2年)
- 1934年(昭和9年)8月1日 - 従二位[3]
- 1943年(昭和18年)3月15日 - 正二位[3][14]
- 勲章等
- 1903年(明治36年)5月21日 - 銀杯一個[3][15]
- 1912年(明治45年)6月18日 - 勲四等瑞宝章[3]
- 1915年(大正4年)11月7日 - 旭日小綬章[3]
- 1917年(大正6年)5月25日 - 勲三等瑞宝章[3]
- 1919年(大正8年)5月24日 - 旭日中綬章[3][16]
- 1924年(大正13年)5月31日 - 勲二等瑞宝章[3][17]
- 1931年(昭和6年)5月1日 - 帝都復興記念章[3][18]
- 1932年(昭和7年)9月9日 - 勲一等瑞宝章[3]
- 1934年(昭和9年)4月29日 - 金杯一個[3]
- 1940年(昭和15年)
- 1942年(昭和17年)5月5日 - 木杯一組台付[3]
- 1945年(昭和20年)9月28日 - 銀杯一組[3][19]
- 外国勲章佩用允許
- 1915年(大正4年)11月9日 - 支那共和国:二等嘉禾章[3][20]
- 1927年(昭和2年)4月19日 - ローマ法王庁:千九百二十五年聖年祭記念布教博覧会功労章[21]
- 1934年(昭和9年)3月1日 - 満洲帝国:大満洲国建国功労章[3]
- 1942年(昭和17年)3月
著作
[編集]- 著書
- 『中等教育 経済要義』 育成会、1901年
- 『市町村制』 法政大学、1908年9月 / 信山社出版〈日本立法資料全集〉、2023年5月、ISBN 9784797277517
- 『教育行政法』 東京出版社、1912年7月 / 芳文閣、1992年1月
- 編書
- 『岡田良平先生小伝』 1935年4月
- 『明治以降 教育制度発達史』 教育史編纂会編修、竜吟社、1938年5月-1939年9月(全12巻)/ 教育資料調査会、1964年10-1965年2月(全14巻) / 芳文閣、1984年5月(全14巻)
脚注
[編集]- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、38頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、46頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 「松浦鎮次郎」 アジア歴史資料センター Ref.A06051183500
- ^ 『官報』第5106号「叙任及辞令」1900年7月11日。
- ^ 『官報』第5661号「叙任及辞令」1902年5月21日。
- ^ 『官報』第6273号「叙任及辞令」1904年5月31日。
- ^ 『官報』第7425号「叙任及辞令」1908年3月31日。
- ^ 『官報』第7955号「叙任及辞令」1909年12月28日。
- ^ 『官報』第8544号「叙任及辞令」1911年12月12日。
- ^ 『官報』第1330号「叙任及辞令」1917年1月11日。
- ^ 『官報』第2847号「叙任及辞令」1922年1月31日。
- ^ 『官報』第43号「叙任及辞令」1927年2月23日。
- ^ 『官報』第150号「叙任及辞令」1927年6月30日。
- ^ 『官報』第4881号「叙任及辞令」1943年4月22日。
- ^ 『官報』第5964号「叙任及辞令」1903年5月22日。
- ^ 『官報』第2041号「叙任及辞令」1919年5月26日。
- ^ 『官報』第3533号「叙任及辞令」1924年6月4日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『官報』第5638号「叙任及辞令」1945年10月26日。
- ^ 『官報』第996号「叙任及辞令」1915年11月26日。
- ^ 『官報』第93号「叙任及辞令」1927年4月23日。
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。ISBN 4130301209
関連文献
[編集]- 『東京学芸大学所蔵松浦文庫目録』 東京学芸大学附属図書館、1965年。
- 米田俊彦 「教育審議会と松浦鎮次郎 : 教育行政研究(審議会研究)の方法と射程」(『人間発達研究 』第21号、お茶の水女子大学人間発達研究会、1998年7月、NAID 40004133968)
- 「松浦鎮次郎」(国立公文書館所蔵 「枢密院文書・高等官転免履歴書三・昭和十一年〜昭和二十二年」) - アジア歴史資料センター Ref. A06051183500
- 『国立公文書館所蔵 枢密院高等官履歴 第7巻』 東京大学出版会、1997年。ISBN 4130987178
公職 | ||
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先代 河原田稼吉 |
航空評議会会長 科学振興調査会会長 1940年 |
次代 橋田邦彦 |
先代 河原田稼吉 |
国民精神総動員委員会委員長 1940年 |
次代 (廃止) |
先代 局長 李軫鎬 |
朝鮮総督府学務局長事務取扱 1929年 |
次代 局長 武部欽一 |
先代 赤司鷹一郎 |
文部次官 教員検定委員会会長 医師試験委員長 歯科医師試験委員長 薬剤師試験委員長 学校衛生調査会会長 1924年 - 1927年 |
次代 粟屋謙 |
先代 (新設) |
震災予防評議会会長 1925年 - 1927年 |
次代 粟屋謙 |
先代 柴田駒三郎 |
維新史料編纂事務局長 1924年 - 1927年 |
次代 粟屋謙 |
その他の役職 | ||
先代 粟屋謙 理事長 |
大日本職業指導協会会長 1938年 - 1945年 |
次代 (欠員→)河原春作 日本職業指導協会会長 |
先代 河原田稼吉 |
実業教育振興中央会会長 1940年 |
次代 橋田邦彦 |
先代 桜井錠二 |
財団法人東京女学館長 1939年 - 1940年 |
次代 沢田源一 |